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2007年05月20日

自分史:夫との出会い その5

距離の壁に阻まれた私たちがつきあうことになったきっかけは、私の北海道訪問でした。








私は『金髪の日本人さん』と出会って別れた10日後くらいに日本に帰国しました。

2月末か、3月初めの頃でした。



帰国してすぐ、絵葉書を彼に送りました。

速攻で返事が来ました。

約束どおり、板門店で写した写真を何枚もプリントして送ってくれてました。

「やっぱり親切!」またまた目がハートになる私でした(^^)




それから、私はときどき手紙を書きました。

彼は必ず、すぐに返事をくれました。内容は男の人らしいぶっきらぼうな調子でしたが・・・。

やっぱり親切(^^)

でもちょっと素っ気ないかも(苦笑)



(あの頃もうメールなんてものがあったらどうだったんでしょうねー。。。

あ、携帯もPCも、メール機能を一切使いこなせてないうちのダンナ様だから、もしメールがあっても使えてないかも!^^;)




でもいくらなんでも、旅先で一日一緒に行動しただけ、しかも相手からは全然プッシュしてくれる気配はない、そんな状況の男性とまさかお付き合いできるとはとても思えませんよね。

それに連載初回に書いたとおり、倦怠期とはいえちゃんとステディな彼氏がいた私。


帰国直後はポーーーッとしてたものの、日常に紛れてすっかりあきらめがついてしまいました。




さて、時は流れ、夏が近づいてきました。

「さて今年の夏はどこに旅行に行こうか?」

「そうだ、友達誘って北海道に行こう! “金髪の日本人さん”という知り合いもできたことだし、どこか案内してもらえたりするかも!」


そんな短絡的な思考回路で、私は北海道旅行を計画。

もちろん、『金髪の日本人さん』との再会にはおおいに期待していました。

でも、自分に自信もないし、彼の方は特に私のことをなんとも思ってないみたいだし、私には一応BFがいるし、「あの人とどうにかなりたい!」なんて野望は抱いていませんでした(^^;


ただ北海道旅行を楽しんで、彼とも再会を楽しんで、これからも末永いお友達でいれる基盤を作ろう。

そんな気分でした。



「世界旅行研究会」なんてサークルに入っていたおかげで、旅好きな友達には事欠かず、すぐに北海道旅行の相手は決まりました。

(一人旅大好きな私ですが、さすがに一人暮らしの男性のところにいきなり一人旅で訪れるわけにはいかない、という良識が働きまして・・・^^;)



『金髪の日本人さん』に「この夏、友達と北海道に旅行に行こうと思うんですが、遊びに行ってもいいですか」と手紙に書くと、「ぜひぜひ来て下さい、一緒に酒でも飲みましょう」という返事が来ました。


「行くぞ!」と気合の入った私。

でもいかんせん学生の身、旅費が足りません。

友人(もちろん女の子です)と二人で決めた作戦。

それは






ヒッチハイク!





そのちょうど前年に、やはり野宿&ヒッチハイクを多用した貧乏旅行で北海道を訪れているので、その二つの旅行の思い出が混じってしまい、詳細を思い出せません(^^;


一つだけよく覚えているのが、大型トラックをヒッチして津軽海峡までたどり着いたものの、青函連絡船に乗るお金がなく、トラックの助手席に隠れたまま青函連絡船に乗り込んだこと。

(当時、青函トンネル開通直後でしたが、トラックが青函トンネルを通れるわけもなく。

ということは、今でも青函連絡船はあるんでしょうか?

車両運搬の手段として。)



友人と二人、無事乗り込めたことに安堵して、船内でそーーーっと車から降り立ちました。

すると突然、「ちょっと!そこの二人!」と若い乗務員さんに呼び止められてしまったのです!



 無銭乗船が見つかった?!

 絶体絶命の危機!


  ・

  ・

  ・


ところが、その若い乗務員さんは

  「わかってる、お金がないんでしょう?

   それはいいから。

   でも、もしこの船になにかあったときのために、

   乗船簿に名前と住所を書かせて。

   お金のことは心配しなくてもいいから。」


と・・・。



世の中にこんなに親切でこんなにもののわかった大人っているんだ、と思いました(^^)

船に万が一ことがあったときに、名簿に名前がなかったら、救助から漏れるかもしれない。

無縁仏になってしまって、遺族に連絡が行かないかもしれない。

それを心配してくださった、心にくい配慮でした。



そんな冒険を乗越えながら(^^;“金髪の日本人さん”の住む富良野に到着。


数ヶ月ぶりに再会する彼は、ド金髪もだいぶ落ち着いて、「明るい茶髪」程度になってました。

相変わらずおかっぱ頭でしたが(^^;


彼の案内で、アパートへ。




古ぼけた、家賃の安そうなアパートの、建てつけの悪いドアを「ギィーッ」と開けると、


  そこは


  ・

  ・

  ・



別世界でした!



修行していた家具工房で自作したという見事な手作り家具が並んでいます。

照明やカーペットやカーテン、内装の全てが、統一感があります。

お金はかかってないものの、すごくこだわって選んだのが伝わってくるものばかり・・・。

でしかもめちゃくちゃ片付いてる!

余計なものが何一つ無い。


   感動・・・・。





夕食も、次の日の朝食も、彼の手作りです。


彼が骨董品屋さんなどで見つけてきたというこだわりの食器にキレイに盛り付けられて出てきます。



???大感動!!!!


一旦あきらめがつきかけ、忘れかけていたトキメキがダッシュで戻って参りました!


彼のアパートには二泊だったか三泊だったかさせてもらったのですが、いっぱいいっぱいおしゃべりして、いっぱいいっぱい笑いました。

そう、彼のユーモアのセンスにもノックアウトされたかな(^^)


笑いの方向性が似ているんですね。

面白いと思うものが似ている。

冗談を言い合っていると時が立つのを忘れました(^^)

笑って笑って、お腹の皮がよじれました・・・




最後の夜、友人が寝てしまったあとも、私はいつまでも彼と話してました。

時が惜しかったんですね。

眠ってしまえば、朝が来るだけですから。

そして東京に向けて帰っちゃうだけですから。



・・・そして、その晩、とうとう成り行きで私は自分の気持ちを告げることになりました・・・

そして、彼もまた応じてくれました・・・





東京に帰ってすぐ、彼から届いた手紙には、「僕のパートナーになってください。結婚しましょう。」と書いてありました。


気持ちを確認しあった後、一通目の手紙ですよ?


驚いて「まさか熱しやすくて冷めやすいタイプなのでは?」と返事を書きました。

それに対し、

「僕は熱しやすく冷めにくいという、フライパンや鍋の素材に最適なタイプなんです」

という返事が(^^;



私はまだ21歳、まだ大学三年生でした。

「私が探していたのはこの人だ」という確信を持ちつつも、あまりに時期尚早で、お断りいたしました。



その後ずっと、「結婚しよう」攻撃は続きました。

「熱しやすく冷めにくいという、フライパンや鍋の素材に最適なタイプ」

という言葉は本当でした。



でも、当時、私にはつきあっているステディな彼氏がいたのです・・・


その6へ



posted by スピリチュアルコーチたまちゃん at 01:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 夫との出会い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

自分史:夫との出会い その6

「こんな人でないと結婚しない」と思い描いていたその通りの人と出会う。
しかも旅先で。

しかも、先方までが私を気に入ってくれた。

奇跡的ですよね。

運命的な出会いだと。

でも、その後の展開は全然スムーズじゃなかった。



まずは、当時、私にはつきあっているステディな彼氏がいました。



でも、私にとっては「この人は私が探している人じゃない」ということが既に明確になってしまっていて、私から別れ話を切り出しては、寂しさに負けてまた寄りを戻す、ということを繰り返しているような状態でした。

ので、当時の彼氏との別れはすぐに決意できました。

でも、つらかった。


他に好きな人ができたから、別れる。

これって、とっても自分勝手で相手を傷つける別れ方ですよね。



そんな自分が嫌だった。

すごく自己嫌悪になりました。


それから、“金髪の日本人さん”はどんなに素敵な人でも、近くには居てくれない。

気軽に会えない。

あまりに長距離で、電話代も気になる。


そして当時の私のつらさを倍増させたのは、 共通の話題がない でした。


私はホワイトカラーの家に育ち、教育熱心な親に猛勉を強いられて東京の大学に進学していました。

彼はブルーカラーの家に育ち、勉強しろなんて言われたことなく、実業高校卒業後は家業を手伝い、その後家出同様に家具工房に弟子入りした人でした。


まったく育った環境とか、今いる環境とかが違うのです。


私たちは旅先で出会って、その後まもなくつきあいだし、共通の友達も少なく、共通の環境に一緒に居たことがほとんどないままでした。


私は読書が好きで映画が好き(それもおゲイジュツおフランス系の)。

彼は読書はハウツーものオンリー。

映画はドンパチ系ハリウッドものオンリー。


趣味が違う・・・(;;)





元彼は、とても趣味の合う人でした。

育った環境も良く似ていて、今の環境も同じ(同じ大学、同じ学部で同じサークルの先輩でした)。

しかも近くにいてくれて、夜中でも「会いたい」と言えば飛んできてくれる人でした。


元彼とは別れたものの、新彼はその代わりはしてくれない。



私は精神的なバランスをひどく崩しました。

元彼をひどい振り方をした、ということで罪の意識もありましたし・・・

孤独にも耐えられるほど強くなかったですし・・・



アルバイトで稼いだお金を貯めて、はるばる彼に会いにいっても、感覚の違いや習慣の違いに唖然とすることばかり・・・

(価値観だけは幸い近かったのですが・・・)

大学生活で私の周りにいる、優柔不断なほどに優しくて口のうまい男の子たちとは全然違う。

(文学部でしたから、特にそういうタイプの人が多かったのかもしれません)


ぶっきらぼうで語彙が少なく、ぎょっとするような表現を平気で口にする彼・・・。



理解できませんでした。

私の繊細でもろい神経はジョリジョリと逆なでにされました。

せっかくはるばる会いに行っても、泣きながらモノを投げながら大喧嘩。



東京での一人暮らしがさびしくて、彼に電話をしても会話が続かない。


とうとう、一旦別れることになりました・・・


付き合いだしてわずか数ヵ月後の秋のことでした・・・





☆ ☆ ☆





「こんな人でないと結婚しない」と思い描いていたその通りの人と出会う。
しかも旅先で。

しかも、先方までが私を気に入ってくれた。

奇跡ですよね。

赤い糸の相手だったということだと思っています。

でも、その後の展開は全然スムーズじゃなかった。



育った環境が違う。

今いる環境が違う。

感覚が違う。

趣味が違う。

好みが違う。

共通の話題がない。

東京での一人暮らしがさびしくて、彼に電話をしても会話が続かない。

はるばるお金を貯めて北海道に訪ねていっても、泣きながらの大喧嘩・・・(;;)


とうとう、一度別れました。


春に出会い、夏につきあい始め、秋に別れ。

なんだか、自然のサイクルに合っている気がしますね(^^)



どろどろの愛憎劇のあげくの別れという感じではありませんでした。

彼が身を引いてくれた、って感じ。

私が寂しいとかつらいとか大騒ぎしていたので、「僕とつきあっていてつらいならば別れようか?」と穏やかに申し出てくれました。



私は「振られた!」と感じてまたドツボにはまるのですが・・・(^^;




しかし、またここで、運命の天使様が微笑みます・・・




東京と北海道と離れていて。

偶然ばったり会うとか、ない。

「最後に一度だけ」とか「ちょっとご飯食べるだけ」とか「忘れ物があったから」とか、そんな気軽な理由では再会できる距離ではない。

今まで一緒に過ごした時間もすごく短く、積み重ねた歴史とか共通の思い出とかが非常に少ない。

共通の知人・友人が極端に少ない。



普通に過ごしていたら復縁があり得ない状況でした。




しかし、またここで、運命の天使様が微笑んだのです・・・



その7へ


posted by スピリチュアルコーチたまちゃん at 01:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 夫との出会い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

自分史:夫との出会い その7

私と彼とは、「偶然にばったり」もあり得ない遠距離恋愛です。

いったん別れてしまえば、復縁は難しい。

普通ならここで復縁はないことでしょう。



しかし、運命の天使様が微笑んでくれました。



別れてから1ヶ月ほどたった頃、電話が鳴りました。

韓国のソウルの安宿で一緒にたむろっていた仲間からでした。

彼との出会いの舞台になった、あの安宿です。


「“金髪の日本人”さんのところに泊めてもらってスキーしようと思うんだけど、一緒に行こうよ!」


その子は細かいことにはこだわらないニコニコ朗らかな男の子で、

  「“金髪の日本人”さんとは実はその後つきあって別れたので、
  気まずくてとても行けない」

と断っても

  「そう言わずに行こうよ」
  「いいじゃんいいじゃんそんなこと気にするなよ」

の一点張り。



普通、そんな理由を聞かされたら「そう・・・ごめんね・・・」とすぐに引っ込みませんか?




その子はニコニコと爆弾発言を平然と口にするような、それで
周囲が凍っていても気づかないような、そんな天然キャラでした(^^)



でも、そのカラリとした明るさに「別にいっかー」と行く気にさせられたんですから、私たち二人の恩人ですね。。。。

最近すっかりご無沙汰してますが、Kくん、感謝してます!



もちろん、嫌いになって別れたわけじゃなかったからこそ行こうかなと思えたんですよね。

そうでなかったら彼も歓迎してくれなかったことでしょう。

共通の話題がなくって寂しい、とか、私は寂しがりやで長距離恋愛には向かない、とか、そんな理由で「ちょっと無理かな」と思ったところに“金髪の日本人”さんが「僕とつきあっていてつらいなら別れようか」と身を引いてくれた。

そういう別れ方でしたから。

ドロドロの傷つけあいをして別れたわけじゃなかった。

その後もたまには電話で話してましたし・・・。

でも、「別れ」を口にしたのが彼からだったこともあり、「振られた」いう思いもあって、気まずいのは気まずかったのです・・・。



というわけで、朗らかで細かいことは気にしないKくんに強引にひっぱられる形で、富良野の彼のところにスキーに行きました。

出会ってからほぼ一年たった、初春の頃だったのではないでしょうか。



久々に訪れる彼の部屋はやっぱり素敵で、彼の手料理はやっぱり手際よく、
盛りつけも凝っていて、おいしい。


そして雪山での彼の姿はとっても格好良かったのです!(*^^*)


私の理想の男性の条件のうちの次の二つを十二分に満たす姿でした・・・

「大胆で実行力がある人」

「生命力の強い人。サバイバル能力のある人。
 自分の手で家を建てたり、自分で井戸を掘って水を確保できたりするような、
 山から獲物をぶら下げて帰ってきたりできるような、そんな人。」



スキー場なので当たり前ですが、雪が積もっていて寒いんですよ(^^;

で、彼も大阪出身で、つい数ヶ月前まで九州に住んでいた人のはずなんですよ。

北海道の冬なんて、初体験のはず。

スキー自体、初心者同様だと自分でも言っていて、決してそんなに上手ではない。



なのに、すごく堂々と生き生きと振る舞っている。

寒さや雪に全くたじろぐ様子がない。

アパートの前の雪かきとかをする姿が力強くて要領良くって、しかも全然めんどくさそうじゃない。
しんどそうじゃない。

私が慣れない重いスキー板を運ぶのに手間取っていると、片手でひょいひょい運んでくれる。

すごく親身に指導してくれて、教えてくれる。

それも全然偉そうじゃない。

「そういう俺も下手なんやけどな」と言ってハハハと屈託なく笑う。

こけるたび、「俺こんなとこでこけた〜!」といちいち大笑い(^^)




またまた目がハートになりました・・・

正直に言って、惚れ直しました・・・(*^^*)



やっぱり私はこの人がいい!

ちょっとくらい趣味が合わなくても、感覚が違っても、ちょっとくらい寂しい思いをすることになっても、私はこの人じゃなきゃ嫌なんだ。

とにかく私はこの人がいいんだ。




でも、短い滞在期間はあっという間に過ぎ、帰る日が近づいてきました。


そんなとき、また“天然”くんのKくんが爆弾発言をしたのです・・・


「僕は用事があるから帰らないと仕方がないけど、たまちゃんはもう少しいればいいじゃん。

どうせ大学、冬休みなんでしょ?

だったらゆっくりすればいいじゃん。

僕は一人で帰るから、たまちゃんは残りなよ。」



私は驚いて「だって・・・迷惑だろうし・・・」とかなんとかモゴモゴつぶやきました。

“金髪の日本人さん”は「別に迷惑じゃないよ。残れば?」と答えてくれました・・・



次の日、Kくんはニコニコとさわやかに一人帰って行きました。



“金髪の日本人さん”が「残れば?」と言ってくれた時点で、そして私が一人残ることを決めた時点で、私たちは再び付き合い出すことを決意したわけです。

「だって、自分から“別れよう”って言って私を振ったくせに!」と後からすねてみせると、「僕とつきあってるせいで苦しいなら悪いと思ったから」と言ってくれました。


その当時も、今も、一貫して、彼は私をとても大切にしてくれます。

私は、その当時も、今も、一貫して、彼に惚れ込んでいます(*^^*)



でも、全然スムーズじゃなかった。


何回も何回も大喧嘩を繰り返し、傷つけあいました。

何回も何回も別れました。

結婚してからもそれは続きました。

何回も何回も「離婚」という言葉が飛び出しました。



私がこの連載を通して伝えたかったことは、


「運命の人と出会えばハッピーエンド」というわけではない!


ということです。





出会えればめでたしめでたしではありません。


「チャンスが巡ってきても、それをつかんでモノにするのは自分の行動力」

なのです。



そして、出会って結ばれるところでハッピーエンドが訪れるのは、おとぎ話の中だけです。


「その後、関係性を築いていくのは自分の努力」


なのです。



私は、21歳という若さで、思い描いていた通りの男性と巡り会いました。

それは、単純な幸せを意味しませんでした。


幼稚で未熟なまま「運命の人」と出会う。

それはなかなか過酷な経験でした。



「運命の人」と出会う時期の早い遅いにかかわらず、親密で継続的な関係を誰かと持てるようになるには、人生経験と人格の成熟が必要なのです。


自分磨きと人格の成長に、出会ってから取り組むのか、出会う前に取り組むのか。

その違いがあるだけなのです。


「他人といいパートナーシップを築けるようになっているかどうか資格試験」に、合格してから出会うのか、

出会ってから、合格するまで過酷な勉強に取り組むのか。


その違いだけ。

そんな感じです。



私は、「早すぎる巡り会い」に苦しみました。



その8へ

posted by スピリチュアルコーチたまちゃん at 01:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 夫との出会い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

自分史:夫との出会い その8

私は、21歳という若さで、思い描いていた通りの男性と巡り会いました。

それは、単純な幸せを意味しませんでした。


幼稚で未熟なまま「運命の人」と出会う。

私は早すぎる出会いに苦しみました。



何かを選ぶ、ということは、他の選択肢を捨て去るということです。

「決断」は、「断つと決める」と書きます。



彼を選ぶということは、他の恋を諦める、ということでした。

彼と一緒の未来を選ぶということは、他の未来の可能性を諦める、ということでした。



彼との交際期間に、何度か別れていますが、そのうちの一回は「他に好きな人ができたから」でした・・・


私が幼い頃から思い描いていた通りの理想の人である今のダンナを振ってまで付き合いたかった人もまた、明らかにソウルメイトでした。


若いときに「赤い糸の相手」と出会うということは、再会を約束していたソウルメイトと出会っても、恋ができないということです(^^;


明らかに「恋の相手としての再会」を約束していたソウルメイトと、やっと巡り会えたとき、「結婚の相手としての出会い」を約束していたダンナともう出会ってつきあっていた・・・


私は板挟みになって、ひどく苦しみました・・・


出会いの順番が、逆ならば良かった・・・



本当に苦しかった時期、その彼との過去世を思い出しました。

チベットの僧院で共に修行していた親友でした。

再会を約束して転生して、そして出会えたのにね・・・。



彼とは「恋の相手としての再会」。

“金髪の日本人さん”(今のダンナですね^^)とは「結婚の相手としての出会い」。

時が経つにつれて、そのことが明確になったので、ダンナの元へ戻りました。

ダンナも心が広いと思います。

ひどく傷つけたはず。

それなのに、よくぞ受け入れてくれました。

よくぞ許してくれました。

でも、私だって苦しかった。

悶絶するほどの苦しみでした。

出会いの順番が、逆ならば良かった・・・


早すぎる出会いに苦しんだ、一例です。



“金髪の日本人さん”は理想通りの人でした。

夢に描いていた通りの、尊敬に値する行動力、知性、寛容さ、向上心、決断力、自立心・独立心の持ち主。

が、共通の趣味にも話題にも乏しい人。

そして、依存させてくれない人。

寂しいだの会いたいだのと言ってくれない人。

私がそういうこと言っても「?」という反応しか返してくれない人。

自分がとても自立できている人なので、私の甘えたい願望や依存心を理解できない。

「会いたいって・・・会って何するの? あ、セックス?」みたいな反応です(これマジ^^;)。




内側に泣きやまないインナーチャイルドを抱えたアダルトチルドレンの一人である私。

ひとりぼっちが怖くてならず、すぐに精神的に不安定になる私を、なんの悪気もなくポンと突き放す・・・

鬼コーチか!って感じでした。



彼とつきあい続け、彼と結婚するということは、「私を甘やかしてくれる男性との居心地の良い恋は、この人生ではもう二度とできない」ということを受け入れることでした。

「恋人には自分を理解してほしいし共感してほしい」という願いをきれいさっぱり諦めるということでした。


彼とつきあい続け、彼と結婚するということは、自分の未来の可能性の幅を極端に狭めることでした。

私は大好きな国、タイと関わって生きていきたいという夢も一旦諦めました。


大学卒業後のタイ留学を、半年で切り上げて帰国したのです。

タイではなく、彼と生きていく人生を、私自身が選びました。

でも、それは苦渋の選択でした。

その後何年も、ひどい喪失感と挫折感、そして後悔を引きずり続けました。

思う存分やりたいことをやった後に、出会えば良かった・・・

これもまた、早すぎる出会いに苦しんだ一例です。



「こんな人生を歩みたい」「こんな人でありたい」という大筋な価値観は一致しているけれども、

細かい点では食い違いだらけ、全然かみ合わない私たち二人。

そんな二人が紆余曲折を経てなんとかラブラブ夫婦にたどり着けた秘訣は・・・





☆ ☆ ☆







  変えられることを変える勇気と

  変えられないことを受け入れるつよさと

  その二つを見分ける智恵を、

  神よ、私にお与えください



こんな祈りがあるのをご存じですか?

私の考える「夫婦ラブラブの秘訣」は、まさにこの祈りの通りです。



変えられることを変える勇気。

タロット占い師への道 2」で書いたように、

私は、夫婦はケンカを避けていてはいけないと思うのです。

決して、真正面からの対峙から、逃げてはいけない。


真実の話し合いを諦めないで模索し続けよう。

あなたが求めているものは何か、何がつらいか、何が苦しいか、ストレートに胸から胸へ直球で投げ込もう。

どうか、より良い関係へ変わる努力をあきらめないで。



人と人は、宇宙の虚空に浮かぶ惑星同士のように孤独。

たとえ夫婦だろうが、人と人の間には、深遠な淵が横たわっている。

だからこそ、伝えたい!届けたい!という強い想いと共に、声を振り絞って伝えていかないと、何一つ伝わらない。

そうしないと、何一つ分かり合えない。



もちろん、相手を傷つけたり貶めたりするケンカはNGです。

かえってお互いの間の溝を深め、関係を壊すだけ。

そうではなく、あきらめずに、真剣に、話し合い、議論を戦わせ、想いをぶつけること。

それなくして、どんな人間関係が持てるというのでしょうか。



激情のまま相手を傷つけるケンカではなく、自分の真実の想いのたけをぶつけるケンカをしよう。

そんなケンカをする勇気を持とう。

自分たちの関係をより良いものへ変えていく挑戦をあきらめてはいけない。

私は心の底から、そう思います。







そして、変えられないことを受け入れるつよさ。

さっき書いたことと一見矛盾するようですが、これはつまり、「あきらめること」「手放すこと」なんですよね。

相手は別の人格なのだ、とあきらめること。

決して理解しあえない部分はある。

それはそれで仕方ないんだ、とあきらめること。

相手は決して自分の期待通りになんか動いてくれない。

このことを受け入れること。

同じ方向を向いて、伴侶として歩いていけるならば、つかず離れずの距離でいいじゃん、と手放すこと。

相手の存在、相手の人格を、丸ごと受け入れて認めること。



相手の趣味、思考回路、性格等は変えられない。

相手の価値観も変えられない。

自分自身が、まずは自分と異なる価値観を受け入れられるよう、変わること。



何が変えられて何が変えられないのか、その二つを見分ける智恵。

これが一番大切なような気がします。

そのためにも、まずは「話し合い」まずは「議論」なのかな。

自分が何がイヤで何がつらくて何で困っていて、どうなりたいのか。

何を求めているのか。

相手にどう協力して欲しいのか。

それをぶっちゃけること。


まずは自己開示ですよね。


自分が先に勇気を出して自己開示すれば、パートナーも自己開示を始めることは多いものです。


むやみに非難されたり攻撃されたりはしない、と信頼関係ができれば、用心深いパートナーも心を開いて話し合いの席についてくれるかもしれません。



本音で話し合うことで、「何が変えられて、何が変えられないのか」が明確になっていくことでしょう。


話し合いもせず、努力もせずに諦めて投げ出うのは、成長を投げてしまうこと。





そして、「お互いが自分らしい人生を生きるためには、別れることも辞さない覚悟」。

そして、「まずは自分自身が幸せでいること」。


この二つも秘訣に加えたいと思います。

別れるしかない二人、というのもあります。

また、「別れ」を具体的にイメージして始めて価値が分かる、という場合があります。

「死」を見据えることが「生」を見据えることとイコールなように、「別れ」を直視することは「パートナーシップ」の価値を認識することに直結するものです。

幼い子どもが、なにかが上手くできないときにすぐに放り出して駄々をこねだすような、そんな安易で逃避的な「別れ」は不毛です。

でも、常に「別れも選択肢としてあり得る」という覚悟は大切だと思います。


「いつか必ず死ぬのだ」と実感しながら生きることが一瞬一瞬の価値を高めるように。


私の場合は、明確にそうでした。

何度も別れを繰り返していますが、その度に、「ああ、私にはこの人が必要なんだ。私はこの人を失いたくないんだ。」ということが腑に落ち、

その後は抵抗無く「この人と上手くやっていくための努力」をすることができるようになっていきました。

彼もまた、別れ話のたびに私を大事にしてくれるようになりました。





それから、「まずは自分自身が幸せでいること」。

幸せな人だけが、周囲の人に幸せのお裾分けができるのですから。

私が自分のやりたいことを見つけ、どんどん満足感と充足感が満ちていくにつれて、夫婦仲は良くなっていきました。



「こんな人生を歩みたい」「こんな人でありたい」という大筋な価値観は一致しているけれども、

細かい点では食い違いだらけ、全然かみ合わない私たち二人。

そんな二人が紆余曲折を経てなんとかラブラブ夫婦にたどり着けた秘訣は以上の5つです。


・変えられることを変える勇気と努力を惜しまないこと。

・変えられないことはあきらめ、手放すこと。

・変えられることと変えられないことの二つを見極めるために、話し合いで心を開き本音を語り合う習慣を持つこと。

・「別離」も視野に入れ続けておくこと。

・まずは自分が幸せになること。


これらはあくまで私にとっての秘訣なので、誰にでも普遍的に効果のあるものとは言えないかもしれません。


でもここから、何か参考になったり、刺激となったりするものを各自汲み上げてもらえれば嬉しいと願ってます。


以上、長々と続けてきた「夫との出会い」シリーズですが、これで一旦区切りを付けたいと思います。


未来予知なのか、理想を明確にしていたら叶うという願望実現の法則なのか、それとも前世から約束していた赤い糸の相手だったからなのか、

とにかく私は子どもの頃に思い描いていたそのままの相手と、運命的に旅先で出会ってしまったのですが。


そんな運命的な出会いだろうが、赤い糸の相手だろうが、人と人がパートナーシップを築いていくのは困難なものなんだ、ということを書きたかったのです。

努力は惜しんではいけないけれども、どこかでは諦めなくてはいけない、っていうこととか。

その辺が伝わっていれば幸いです(^^)


(完)

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posted by スピリチュアルコーチたまちゃん at 01:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 夫との出会い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月15日

くまのコールテンくん【魂に響く絵本・児童文学】

 優れた絵本、児童書は、大人の心をもわしづかみにし、揺り動かします。



     まるで恋のように。



      ':・:*:. ☆ .:*:・:'



お正月にお年玉をもらったこどもたち。

それで、何を買うのでしょう。


「お年玉をはたいてもこれが欲しい!」と思えるものに出逢えることは、

 幸せですよね。


今日は、そんな幸せな巡り会いのお話です。

ずっと求めていたものに巡り会う奇跡を描いた絵本。



魂に響く絵本・児童文学

2007.1.15 第18号
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
『くまのコールテンくん』
ドン=フリーマン 作
偕成社(対象年齢:およそ5歳くらいから)
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

  あらすじ


 くまの コールテンくんは、はじめ、おおきな デパートの
 おもちゃうりばに いました。

 おもちゃうりばでは、どうぶつも、にんぎょうも、みな、
 はやくだれかが きて、

 じぶんを うちに つれていってくれないかなあと、
 おもっていました。

 コールテンくんも、まいにち そう おもっていました。

        (中略)

 ところが、あるあさ、ひとりの おんなのこが、
 コールテンくんの めを じっと のぞきこんで、


  「ねえ、みて、ママ! あたし、ずっとまえから 
  
            こんな くまが ほしかったの。」

                    (本書P3〜P5より)


しかし、女の子の母親は、
「ズボンの肩紐のボタンが取れていて、まるで新品じゃないみたい」と、

名残惜しそうに振り返る女の子をひっぱって帰ってしまいます。

「ぼく、ボタンが取れてるの、知らなかった。今夜、探しに行こう。」

初めて自分を欲しいと言ってくれた女の子が去っていく姿を、
寂しく見送ったコールテンくんは、そう決意します。

その夜、デパートの中を、
自分がなくしたボタンを探して大冒険するコールテンくん。

でもその奮闘もむなしく、ボタンは見つかりません。


次の朝。

前夜の大冒険のため、
まだ眠い目をこすっているコールテンくんの前に、
デパートの朝一番のお客さんの姿。

それは、昨日来たあの女の子でした。


 「あたし、リサっていうの。

  あたし、あなたを つれに きたのよ。

  ゆうべ、ちょきんばこを あけて、

  あたしの ちょきんが いくら あるか しらべてみたの。

  そしたら、ちょうど あなたが かえるだけあったの。

  おかあさんも いいって。」



箱にお入れしましょうかという店員を断って、
リサはコールテン君を胸に抱いて帰ります。

アパートの一室にあるリサのお部屋は小さくて質素。

でも、女の子らしい可愛いベッドの横には、
コールテン君にぴったりのサイズのベッドが
もう用意されています。


 「これが きっと うちって いうもんだな。」と、

 コールテンくんは おもいました。

 「ぼく、ずっとまえから うちで、くらしてみたいなあって

  おもってたんだ。」


 リサは、いすに すわって、コールテンくんを ひざに のせると、

 とれた ボタンを つけてくれました。

 「あたし、あなたのこと このままでも すきだけど、

   でも、ひもが ずりおちてくるのは、きもちわるいでしょ。」

 と、リサは いいました。



 「ともだちって、きっと きみのような ひとのことだね。」

 と、コールテンくんは いいました。

 「ぼく、ずっとまえから、ともだちが ほしいなあって、おもってたんだ。」

 「あたしもよ!」リサは そういって、コールテンくんを

 ぎゅっと だきしめました。(本書P24〜P30より。太字原文ママ)


    −−−−−−−−−−−−−−−−


誰か抱きしめる相手が欲しい リサ。


誰かに「あなたがいい」と言われたい、

誰かにうちに連れて帰ってもらいたい、と切望するコールテンくん。


そんなさびしい二人が巡り会い、

「私がずっと前から探していたのはあなただ」と気づく奇跡。

胸がきゅんとなる古典的名作絵本。



       .。.・:*: ☆ .:*:・:'



ここではないどこかに、私を待っている人がいるはず。

その人は、私の目をじっとみつめて「やっと見つけた」とつぶやくだろう。

「ずっとあなたを探していた」と。


そして私も言うだろう。

「私も」と。「私もあなたを探していた」と。



        .。.・:*: ☆ .:*:・:'



丸ごと受け止めてもらいたい、そのまま認めてもらいたい。

「あなたがいい」と言われたい。

「他の誰でもなく、あなたがいい」、と。

欠けている所があっても、それでもあなたがいい、と言われたい。



そのままのあなたが好きだけど、

でもズボンがずり落ちてくるのは気持ち悪いでしょ?

そう言ってボタンを付けてくれる人。


欠けてるままで丸ごと受け止めてくれる人。

でもそのせいで不都合を感じずにすむように配慮してくれる人。

そんな人を友達と呼ぶのだ。



狭くても、質素でも、自分の居場所がある所、

自分のベッドが用意されている所。

そういう場所を「うち」と呼ぶのだ。

そしてそこは、どんな豪華な御殿よりもずっと素晴らしい。



求めてくれる人のいる幸せ。

居場所のある幸せ。

欠けてる所のあるあなたのままでいいと言ってもらえる幸せ。

足りないところを補い合える幸せ。



人と人とは補いあい、かばいあい、支え合い、ありがとうを言い合い

ぎゅっと抱きしめ合って 生きていく。

             欠けてるままで。




   .。.・:*: ☆ .:*:・:'



コールテンくんは、リサ親子に出逢うまで、

ボタンが取れていることに気づかなかった。


人と人は、触れあうことでお互いの独自性に気づく。

それは、欠点・短所に気づくことでもある。

人と人は、出逢うことで、お互いの欠けている点に気づく。



人は人に欠点を指摘され、ときには嘲笑され、
            劣等感を抱かされることがある。

そして人は人に、そのままでいい、そこがいい、と
     認められ、受け入れられ、励まされ、癒される。

人は人によって傷つき、人は人によって癒される。

傷つくことは磨かれること。

  人は人によって磨かれる。

  人は人によってしか、磨かれない。



        .。.・:*: ☆ .:*:・:'



人は皆、不完全に生まれる。

そしてその不完全さを

受け入れあい、認め合い、支え合い、補い合って

社会として機能していく。

人は社会的存在なのだ。


社会はジグソーパズルだ。

あなたの不完全さを、誰かが埋めるだろう。

誰かの不完全さを、あなたが埋めるだろう。


完全な存在であろうとしないで欲しい。



        .。.・:*: ☆ .:*:・:'



ここではないどこかに、私を待っている人がいるはず。

その人は、私の目をじっとみつめて「やっと見つけた」とつぶやくだろう。

「ずっとあなたを探していた」と。


そして私も言うだろう。

「私も」と。「私もあなたを探していた」と。



        .。.・:*: ☆ .:*:・:'



人は本当はそのままでいい。

ありのままでいい。

それでも人は必ず、

自分に欠けているところを埋めてくれるものを求めて探求の旅に出る。



その旅の果てに、「自分は自分のままでよかった」

「足りない存在のままで ひとと補い合えばよかった」

の答えにたどり着く。



青い鳥は自分の家にいるもの。

でも一旦、家の外に探しに出ることで、

やっとその真実を見る目が開かれる。



自分のミッシングピース探しの旅。

自分探しの旅。

そして自分のミッシングピースは、どこかで獲得するものではない。

誰かとの絆の中でこそ埋められるのだ。


            欠けてる所を補いあう形で。



        .。.・:*: ☆ .:*:・:'



だから、あなたらしさを恥じず、存分に輝いて欲しい。

人より突出した部分を恥じず、欠けている部分を隠さず、

あなたらしさを存分に発揮してほしい。


そんなあなたを待っている人がいる。

そんなあなただからこそ、ぱちりとはまる場所がある。


あなたは世界のミッシングピースだ。

あなたは世界に待たれている。



くまのコールテンくん
ドン=フリーマン 作
偕成社(対象年齢:およそ5歳くらいから)

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2006年08月15日

過去生の記憶?「私は魔女狩りに遭ったのでしょうか」

2005年5月開催の初回よーじゅ先生のタロット集中講座@小樽、

20名近くの方に参加していただいたわけですが。


参加者さんの中には初対面の方もたくさんいらっしゃったのですが、

お話をうかがってみると、

占い師さん、セラピスト、ヒーラー、エネルギーワーカーさん、

とライトワーカーせいぞろい、という勢いでした。


今回が初対面だった参加者さんの一人、マリアさんと、

たまたま隣り合わせに座りました。


マリアさんはヒプノセラピスト兼タロット占い師であり、

過去生とか色々見えてしまう方だそうです。


で、講座中に突然、「あ、今見えちゃった」とおっしゃいます(^^)

「このメンバーで、

みんなで『魔女仲間』として共に学んだ過去生があったわよ」と。


やっぱりその時も、先生はよーじゅ先生で、

そのアシスタントに私がいたそうです。


その時たまたま楽天仲間でもあるwingさんとさゆりんも

すぐ近くに座っていたのですが、声を揃えて「やっぱり?!」と・・・。

「だから魔女狩りの記憶があるのかなあ」と。


私も、とても思い当たる記憶があるのです・・・





私は、ここでもよく書いてますが、

生まれつきすごく強い自己否定と、

そして罪悪感を持って生まれているんです。



私が私であることがばれたら、また迫害を受ける。



わずか二歳や三歳の頃からひどい対人恐怖症で、場面緘黙症でした。

家から一歩外へ出て、家族以外の人と話そうとすると、

恐怖に身がすくみ、声が出ないのです。



無理をすると裏声ならなんとか出たので、

完全な場面緘黙症というよりは

場面緘黙症的傾向といったほうがいいのかもしれませんが。



そんな状態で、幼稚園も小学校も、友達と遊んだ記憶はありません。

怖くて怖くて声も出ないのに、

一緒に遊べるはずもなく・・・友達なんて、一人も居ませんでしたから。



休み時間は、自分の机に一人ただじっと座っていました。

幼稚園の頃は、一人で部屋の隅で体を丸めてうずくまっていました。




そしてまた、それだけでなく

「私の判断はすべて間違っている」という確信的な自己否定が、

なぜか物心ついた頃からはっきりとありました。

自分に自信なんて、ゼロでした。

自己嫌悪と自己否定のかたまり、という珍しい幼児でした(^^;



幼児どころか、胎児のときからですけどね。


母のお腹の中に居たときから

「またなんの役にも立てないんじゃないか、

また失敗するんじゃないか、

また愛する人を守れないんじゃないか」

というものすごい不安を持っていたことを、

ヒプノセラピーを受けてありありと思い出した過程を、

ここでも以前書きました。


私は予定日を大幅に過ぎてから生まれたのですが、

その恐怖と不安から、生まれることに抵抗していたんですね。



ただ魔女狩りに遭っただけなら、

迫害恐怖、対人恐怖だけでいいと思うのですが、

なぜか強い自己否定・自己不信・罪悪感がある。

「また役に立てない、また守ってあげられない」という・・・。

「私のせいだ」という・・・。



なんでだろう?どんな記憶があるというのだろう?と

ずっと不思議に思っていました。

それがマリアさんの言葉で「はっ」とひらめいたことがありました・・・

posted by スピリチュアルコーチたまちゃん at 00:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 過去生の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月14日

魔女狩りの記憶 2

「魔女学校」のような場で、私は指導者的立場だった・・・

(今ここで話題に上げている「魔女」とは

黒魔術で悪魔を呼び出すような存在のことではありませんよ^^;。

医者なんていない昔の農村で、

薬草を集めては病気の人に処方したりする

シャーマン的な存在の人のことを言ってます。

現代風に呼べばヒーラーでありセラピスト!)



「それでか!」「わかった!」というようなヒラメキがありました。




私の魂は、ずっと人々に知識を伝えるような指導者的立場だっただろう、

ということは、今まで色んなところで言われてきていました。



「え?そう?ヨイショしてくれてありがとう^^」

くらいな気分で聞き流してきていましたが・・・。



「私が、過去生のどこかで、

魔女学校のようなところで教えていたとするならば。」


私の中で何かがパチリと音を立ててはまりました・・・



私が色んな知識を教え、

セラピストやヒーラーやシャーマンに育て上げた人たちがいた。


その人たちは、私が教え導いたせいで、魔女狩りにあって、殺された・・・

そう思うと、全てが符号するのです。

パズルで、ミッシングピースがあるべき場所にはまったときのように。



私の激しい自己否定、自己不信、罪悪感の理由が、

突然クリアになった気がしました。



私を責める内なる声は、いつもこんなことを言うのです・・・

「私の判断はすべて間違いだから。

 私の行動はすべて間違いだから。

 私の言うことはすべて間違いだから。


 また失敗するから。

 またすべてを失うから。


 だから、私には人前で発言するような資格はない。

 だから、私は何も言ってはいけない。


 私の言葉を信じてついてきてくれる人たちを作ってはいけない。


 また守ってあげられないから。

 また失ってしまうから。

 私のせいで、私のせいで、私のせいで!」




マリアさんを中心に和やかに談笑している中、ボソッと

「私、たぶん、たくさんの人を教えたり導いたりして、

そのせいでみんなを死なせてしまったことがあると思う。

それがその『魔女学校』のときかなあ。

私が教えたせいで、魔女狩りで死に追いやってしまった、って

自分をひどく責めたんじゃないかなあ。

私のせいだーっ、って・・・」



こうつぶやくと、wingさんが予想外の激しい反応を見せてくれました。

突然、顔をくしゃくしゃにして涙をポロポロ・・・



「ちがうよ、たまちゃん、あなたのせいじゃない・・・」



私も一緒に泣いてしまいました。

マリアさんもさゆりんも一瞬だまりこみ、

なんともいえない静寂があたりを包みました。

無言のうちに何か重い記憶を共有した一瞬でした。




突然ですが、最近のマイブーム漫画からの抜粋です。

-----岸本斉史「NARUTO」集英社 第26巻179-187pより抜粋----


(シカマルという少年が、

仲間の救出という任務の小隊長を命じられるが、

次々に小隊のメンバーは強すぎる敵に倒される。

救出というミッションも果たせない。

自身は軽症で済んだシカマルは、

重傷を負った隊員の手術が終わるのを手術室の前で待っている。)



  「俺は今回の任務ではじめて小隊長についた。

   それでわかった。

   俺は忍にゃ向いてねえ・・・。

   俺が甘かった。

   力が足りなかった。

   全部俺のせいだ・・・。」




そうつぶやいてその場を立ち去ろうとするシカマルに、

  「傷つくのが怖いのか?」


という厳しい声が飛ぶ。




  「お前が忍をやめても任務は続く。

  誰かがやらなきゃなんねーんだ。



  お前の仲間はまた別の隊長のもと、出動するだけだ。

  そこでお前の仲間は死ぬかもしれねえ・・・。

  だがもしその時隊長がお前だったら・・・

  仲間はそうならずに済むかもしれねえ・・・。


  今回を反省し、経験を生かして学べば・・・

  任務をより完璧にこなせるかもしれねえ。



  本当に仲間を大切におもうならな、

  逃げることを考える前に・・・

  仲間のためにてめーがより優秀になることを考えやがれ!



  それが本当の仲間ってもんだろーが。

  この腰抜けが!」



そこへ、重傷の仲間が一命を取り留めたという知らせを持って

里長がやってくる。


  「シカマル、どうやら任務は失敗のようだね。

  でもみんな生きてる。

  それがなによりだ。」



里長へのシカマルの返事は



  「次こそは・・・完璧にこなして見せます・・・!」


滂沱の涙と共に、搾り出すように・・・。



-----岸本斉史「NARUTO」集英社 第26巻179-187pより抜粋----





これは、まさに私が今直面している課題。


仲間を危険にさらした罪悪感から、

「もう何もやらない。責任もてないから、もうやめる。」と、

私は逃げを決め込んでいたわけです。



もうなにもやらず自主謹慎を決め込んでいることで償いとしようと・・・。



そこへ一喝。


  「お前が忍をやめても任務は続く。

  誰かがやらなきゃなんねーんだ。」




  「今回を反省し、経験を生かして学べば・・・

  任務をより完璧にこなせるかもしれねえ。」



  「本当に仲間を大切におもうならな、

  逃げることを考える前に・・・

  仲間のためにてめーがより優秀になることを考えやがれ!」






もしそれができたら・・・

  今度こそうまくやれるかもしれない・・・。





シカマル〜

まだ少年のあんたが

「次こそは・・・完璧にこなして見せます・・・!」と言うなら、

私もやるよ・・・。


滂沱の涙と共に、搾り出すように言うなら・・・私もやるよ。

私も挑むよ。



過去に一度や二度失敗したからと言って、それがなんだろう?


こうしてまた巡りあえるなら、一度や二度の別れがそれがなんだろう?


今度こそ、うまくやる。

今度こそ。


それが本当の償いじゃないのか?


(つづく)
posted by スピリチュアルコーチたまちゃん at 01:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 過去生の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

魔女狩りの記憶 3

「NARUTO」の第26巻は二、三週間前に読んでいて、

ズドンと重く胸に響いていました。



そのときはなぜここまでグサッとくるのか分からなかった・・・。

それがタロット講座中のマリアさんやwingさんやさゆりんとの会話で、

ピタッとはまりました。



「私がみんなを死に追いやっていたのかもしれない」

その罪悪感を後悔の涙とともに吐き出すことができた・・・。

私にとって大きなブレークスルーでした。

しかも、その当人たちかもしれない人たちを前にして。



そして、wingさんが「あなたのせいじゃない」と泣いてくれたこと。



さゆりんもその後こんなコメントをくれました。



 「たまちゃん、ありがとうね!!!

  本当に感謝しています。

  魔女狩りの時代のときだって、ずっとそう思っていたよ。

  たまちゃん、ありがとう!って。

  私たちは、つながっているっていう心を持っていたし、

  そのことに誇りを持っていたし、友情が嬉しかった。

  あ、涙出てきた。」


許されたのだ、と感じました。

実は既に許されていたのだ、と・・・。




そしてなぜ私がこんなに

「セラピストを目指している人」、

「ヒーラーを目指している人」、

「ライトワーカーの卵たち」

を応援することを大切に感じているか、

その理由が分かった気がしました。

罪滅ぼしなんですね。

償いなんです。



でも、こけてる人を助け起こすのには積極的で熱心でも、

先に立って旗を振るようなことはできないと感じていた。



 また失敗したらイヤだから。

 自分に自信がないから。

 自分にそんな資格はないと感じていたから。



でも今回、

mirohiさんの「私タロット習ってみたいんですよねー」のひと言に応じて

タロット講座を企画してみて、

たくさんのライトワーカーさん方(またその卵さん方)が集まってくれた。

そして皆さんすごく喜んでくれた。


 「東京まで行かなければ受けられないと思ってました!」

 「すごくためになりました!」

 「満足してます!」



マリアさんが見たように、

このメンバーが過去生での「魔女学校」のメンバーならば。


私が自分を責めていた

「仲間を魔女狩りに追いやってしまった事件」の当事者たちならば。


それがまたこうして巡りあえたのならば。

そしてこうして私が企画した催しでこんなに喜んでくれるのならば。

そしてもし本当に私は許してもらっているのならば。


シカマルじゃないけど、「今度こそうまくやりたい」と思った。


 今度こそ、役に立ちたい。

 今度こそ、うまくやりたい。

 今度こそ。




失敗して、それで終わりではなく、

こうして再会してやり直すチャンスが用意されているならば。

こうして私の企画で喜んでもらえるならば。


 もっともっと役に立ちたい。

 もっともっと全力を尽くしたい。




自分を責めながら

悶々と内にこもっているような自己満足的な償いではなく、

自分の100の力を総動員してできることに取り組むような、

そんな積極的な償いをしたい・・・

私にできることならなんでもする。



どうか、私をお役に立ててください。


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(つづく)
posted by スピリチュアルコーチたまちゃん at 00:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 過去生の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

過去生の記憶に対する私のスタンス

なんだか熱く過去生の記憶について語ってしまいました。

まるで自明の理であるかのように語りましたが、

まだ私の中にためらいと猶予はあります。


だって、事実かどうか、確認できないことですもんね。

ただの空想、ただの妄想かもしれない。


でも、ひとつ言えるのは、

このストーリーについて語ることが私にとって意味がある、ということ。



ある意味で物語療法(ナラティブセラピー)。


私が私自身の生きづらさ、自己不信を乗越えるために、

このストーリーは必要であり、有効であった。



私にとっては真実だった。



このストーリーについて思いをめぐらせ、

湧き上がってくるさまざまな感情を味わい、

共感や理解を示してくれる仲間と語りあうことは、

とても大きな意味を果たした。



その結果、


「私は自己不信を乗越え、根強い対人恐怖を乗越え、

人のお役に立っていく」


という結論に行き着くことができた。



頭ではとっくにその結論は導きだせていた。

でも、体感覚レベルでは腑に落ちていなかった。



体感覚レベルで納得するためには、

「どれほど怖いのか」

「なぜそこまで怖いのか」

を表現するストーリーと、

「そこを乗越える勇気」

「その後得られるつながり」

などのストーリーが必要だった。



そのストーリーに沿って感情を沸き立たせ、

体感覚で(まるでありありと思い出しているときのように)

恐怖、許し、決意、高揚感、つながり感を味わうこと・・・



私の奥深いところでこの体験は真実の体験として経験された。

それはまさに私にとって、癒しの過程だった。





全て、過去生の記憶って、そういうことだと思う。

事実なのかどうなのか、論証のしようのないこと。

だいたい、論証できたとして、それがなんだというのか?



ただ、その人にとって、

そのストーリーを味わい、語ることが意味があるならば、

ぜひそうすればいい。



その人が、その人らしいより良い人生を輝いて生きることに、

何かの助けになるならば。



私は輪廻転生説を採用する。

私は魂には過去生の記憶がある、という説を採用する。

その記憶が今生に大きな影響を及ぼす、という説を採用する。

今生での生き方が、来世がどんな人生になるかを決める、

という説を採用する。


なぜなら、

私はその考え方で世界を見るといろんなことが腑に落ちて明快になるので

気に入っているから。

ただ、それだけ。


私は決して、

「これが正しいのに、その正しさが分からない人たちはおバカ」

みたいなスタンスにだけは立ちたくないと思う。



「私はこの説を採用しました。

あなたは違う説を採用するんですね。」


こんなスタンスでいたい。




私がこんなことを書きたくなった理由には、

どこかで「再び迫害される恐怖」を感じてるという事実があります(^^;



過去生の記憶について書くなんてヘンな人、

と思われて攻撃されるかもしれない。



非科学的な人、狂信的な人、ということで誹謗中傷されるかもしれない。



この不安について昨日、私のコーチに訴えると、

「もう迫害されない、という現実を選択すればどうですか」

と言われてしまいました(^^;



さすが私のコーチ、いいことを言います。

私はもう既に迫害からは多くを学びました。

もうこの学びは私には必要ありません。

私は今生では、認められ受け容れられ社会で活躍していく人生を選びます。 /完



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2006年08月13日

占い師への道 1

2002年まで、

私は手に職もなく、なんの特技もない、一介のパート主婦でした。


生活苦のため、専業主婦ではありませんでした。

でもその仕事の内容は、

スーパーのレジ打ちとか、

一般企業の電話番兼伝票整理とか、

実の姉家族の子守兼家政婦とか(^^;、

本当に誰にでもできる単純作業。。。


どれもこれも、私が私であることを生かせる職ではありませんでした。



しかも、私には、

体や手を動かす単純作業、というのがうまくできないのです。



料理も掃除も嫌いだし、下手なのです(トホホ;;)

レジを打つと間違うのです(泣)

伝票整理をしても間違うのです(泣)

電話の応対がなってない、と怒られるのです(号泣)

当たり障りの無い表面的な人間関係がどうしても苦手。


しかも当時はまだ対人恐怖症が強く残ってましたから、

「おはようございます」の挨拶をする時点から、

顔は引きつり目は合わせられず声は蚊が鳴くよう・・・


そんなんで人間関係がうまく行くはずも無く・・・(嗚咽)



自分のことをダメ人間だ、社会人失格だ、人間失格だ、と責め、

自己嫌悪の塊になる一方で、

「こんな私に生まれたということに何か意味があるはず」と

模索し続けていました。



心理学に対する強い興味と関心、

コミュニケーションスキルへの強い興味と関心、

人の内面に対する洞察力、

精神世界に対する傾倒、、、、


これらが与えられたのは、

「それを使って何か社会のお役に立て」と

言われているに違いないのに・・・

歯噛みをする思いで、自分にできることを探し回っていました。


当時、夫の仕事の関係で北海道を離れ、

姉一家と同居して子守兼家政婦をしていました。

姉の住む土地(本州です)に滞在するのも後一年、とはっきりした時点で、

「今のうちに何か手に職を付けよう」と決心しました。


勉強を始めるには理想的な環境でしたから。


姉はとても面倒見がよく、私のことを全面的に応援してくれており、

経済的にも充分な報酬をくれてましたし、

実家も近く、母もよく訪ねて来て子どもたちの面倒を見てくれました。



私が手に職をつけるために勉強を始めるならば今しかない。



北海道に帰ってからでは無理だ、

都市圏が遠く勉強に不利な環境である上に、

子育てを手伝ってくれる人が誰もいなくなる。

経済的にも苦しくなるのも目に見えてる。

今しかない!


悩んでいる人の話に耳を傾けることで人を支える仕事がしたい。

そのことは明確だった私。

中学生の頃からカウンセラーに憧れていました。


「臨床心理士になりたい!」。



ひと言でカウンセラーと言っても、

産業カウンセラーとか色んなカウンセラー資格があるのは知っていました。

でも、自分に自信がなかったこともあり、

一番権威のある資格を得たかった。


もう私には臨床心理士しかない、と思いつめました。


「臨床心理士になるために」という資格本を買い、

ネットでも情報を集めました。



すると、目の前に立ちはだかる壁の高さに、眩暈が・・・



臨床心理士になるには指定大学院を出なくてはいけない。

まず院入試に受からなくてはならない。

これがまず、難関。

無事難関突破したとしても、

四年間院に通わなければいけない。

(もう当時の記憶が曖昧になってきているので、

年数などが微妙に誤っているかもしれません^^;)

その学費がまた馬鹿にならない(ウン百万単位)。



あと一年で北海道の山奥の村に帰らなくてはならない私。

あそこから一体どこの大学院に通えるというのだろう。

しかも四年間?

まだ小さい子どもたちがいるというのに(当時下の子1歳)。

だいたいウン百万なんてお金、逆さに振っても出てこない。





つまり、私はこのまま自分を生かせず 

自分を押し殺して生きていくしかないのか?

低賃金で 向いていない仕事をして 

神経をすり減らしミスを繰り返し、

「すいませんすいません」と謝りながら小さくなって生きていくのか?

そんな一生を送るしかないのか・・・




絶望しかかったとき、福音が舞い降りました。



「通信大学大学院っていうのがある!」





衛星放送などを使って、自宅で大学院の授業が受けられるのです!

もちろん、卒業資格などは通学したのと同等のものが得られるのです!


年に二回程度の

スクーリング(東京などに出向き実際に授業に出席する)制度が

あるけれど、

毎日通うことに比べたら、それくらいへの河童!

しかも、授業料もぜんぜん割安!


これならなんとかなるかもしれない・・・






しかし、天使から救いの手が差し伸べられたように思えたのもつかの間、

またしても次の壁が私の前に立ちはだかります・・・


(つづく)
posted by スピリチュアルコーチたまちゃん at 21:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 占い師への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

占い師への道 2

今思えば、「悩んでいる人の話に耳を傾ける」ことにさえ携われれば、

なにも臨床心理士にこだわることはなかったのです。


自信がないので、

“臨床心理士”という言葉の響きが持つ「権威」に惹かれたにすぎない。


このときにコーチングを受けられていれば、

そんな自信がないがゆえの条件にふりまわされるのではなく、

もっと核心部分

「自分は何がしたいのか」

「社会に何を提供したいのか」

を明確にした上で、

「もっと他の手段はないのか」と多方面から考えられたのに・・・



しかし、当時の私は「臨床心理士しかない!」と思いつめていました。


そして、普通の大学院よりもずっと割安で、

しかも在宅で勉強できる「通信大学大学院」の存在を知ったことで

舞い上がってました。



これぞ福音だ!



そこに立ちはだかった次の障害。




夫の大反対です(^^;







今でこそラブラブの私たちですが(*^^*)、

当時はケンカが絶えず、

離婚という言葉が飛び出すこともしょっちゅう・・・



私が幸せではなかったですからねえ・・・

不平不満の塊でしたから・・・




今思い返せば、夫の反対理由はもっともなのです。



夫「臨床心理士になったら職が見つかるという保障あるのん? 

赤井川村から通える範囲でも就職先あるんかいな」


私「・・・臨床心理士になっても就職先はないらしい。

ネットで調べても就職先がない話ばっかり。」



夫「アホ! 東京で無い就職先が赤井川村の近くにあるかいな!

 そんだけ金かけて時間つこうのに、

 どうも仕事はないようですってそんなん話になるか!」



ここで私はぶち切れました(^^;

私にしてみれば、暗闇でつかんだ希望の糸だったのです。


自分が自分であることを生かせるような、

自分らしさを輝かすことがそのまま社会の役に立つことであるような、

そんな仕事がしたい。

そんな人生を送りたい!

今、もしかしたらその切望が叶うかもしれない。


私にとって、臨床心理士が、通信大学大学院が、

長い長いあいだ暗闇をさまよい続けて

やっと見つけた一筋の光だったのです。




その希望をあなたは断ち切るのか!





北海道の田舎に移り住んで手作りの家を建て家具工房を開く。

私は夫のその夢を手伝うために、

タイでの留学生活を切り上げて帰国しました。


夢を追いかけ続ける夫を支えるために、

居酒屋、スーパー、事務系パート、と、

結婚以来ずっと家計を担って働いてきました。



家の建築中は、生後間もない乳飲み子を抱えた身で作業を手伝い、

土方仕事にヘロヘロになり、精神的にも肉体的にもボロボロになりました。





私がそうやって今まであなたの夢を応援してきたのは、

私が私の夢を追いかける時がきたら

あなたも私を応援してくれるに違いないという信頼があったからだ。



あなたはそれを踏みにじるのか!



あなたが夢と生きがいにあふれた充実した人生を送っている間、

私がどんな想いでそれを支えてきたか知っているのか?


あなたにとって私は何なんだ。

踏み台か? 貢いでくれるカモか?

ふざけるなっ!!!!






もともと感情が豊か過ぎるほどで、

夫婦喧嘩も派手にやる私ですが(^^;、

この時ほど激情がほとばしったことはないように思います。

泣きながら、悲鳴のような声でダンナを責め、なじりました。



人並みはずれて理性的で現実的なダンナは、

「仕事に結びつかないならば、

どんな資格であろうとリスキーな投資はしない」

という自分の意見を曲げることはしませんでしたが、

その代わり、意外な妥協案を出して来ました。



「お前には占いがあるやないか」・・・




   .。.・:*: ☆ .:*:・:'




今思えば、ほんと、夫の反対は真っ当なものだった、とつくづく思います。

だって、就職先が多分見つからない資格を取るなんて、

値下がり必至の株を買うと言っているのと同じですもんね。



もちろん、趣味でとる資格ならいいと思うんです。

何を隠そう、私と夫は、アマチュア無線三級の資格を持っています(^^)



でも当時の私たちの場合、

安定した収入に結びつく資格を取る、というのが命題でしたから・・・。

子どもたちを無事育て上げるため。

不安定な夫の稼ぎを補うため。


当時はそれすら腹が立ち、

「こいつの稼ぎが悪いせいで私が苦労させられる!!」

という考えも頭をよぎりましたが・・・(爆)


夫の、

「北海道で家具工房を開く」という雄大な夢に惚れこんだからこそ

結婚したはずなのにね(^^;




あの日、私は底を打ったのです。



自分が自分であることを生かせるような、

自分らしさを輝かすことがそのまま社会の役に立つことであるような、

そんな仕事がしたい!



私はあんたの踏み台じゃない!

ふざけるな!

とぶち切れて泣きながら大喧嘩した、まさにあの日。




もうこんな人生はイヤだ。

我慢して自分を殺して生きるのはイヤだ。

私は私の人生を、輝いて生きるのだ。

そのためにはリスクをいとわない!


その方向へ、明確に舵を切ったのです。




今まで、

自分らしい人生を生きるための努力やリスクを回避して、

安易な就職先を選んでいたのは、他ならぬ私だったのです。


自分を生かす道の厳しさを察し、

流されて生きる方を選んでいたのは、他ならぬ私だったのです。




そして、つくづくもうイヤだと思った。

安易な道に流されることの不毛さを、思い知った。

今思えば、

心の底から「自分の人生を生きたい。そのためには何でもする!」と

思えるために、必要な遠回りでした。


そして臨床心理士をいったん志し、夫に反対されるのも、

必要な儀式だったように思います。

あれで、底を打ちましたから。



あのきっかけで、

「ふざけるな、私は私の人生を生きるんだ!」と

大声で宣言できましたから。




その日から、全てが変わり始めました。




しかし、それにしても、

夫の「お前には占いがあるやないか」という言葉には耳を疑いました。

だって・・・

(つづく)
posted by スピリチュアルコーチたまちゃん at 20:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 占い師への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

占い師への道 3


う、占い師になれ?

は?

そんな簡単に言っても、占い師なんて誰でもなれる職業じゃないでしょ?

予知能力とか、霊感とか、そういう能力がいるんじゃないの?

だいたい、そんなうさんくさい職業(^^;本気であなたは妻に勧めるの?


また人をからかって!





ところが、夫は本気だったのです。


そういえば以前から、

私が「何かちゃんとした資格を取って働きたい」と言うたびに、

「占い師になれば?」とよく言ってました。



「またまた〜^^」って感じで、私は聞き流していましたが。

私の方にさっき書いたような偏見があったんですね。



夫いわく、



「よく色んな人をタロットで占ってあげてるやないか。

あれを見ていて当たってるなあ、っていつも感心してたんや。

占い師やったら田舎でやっていても誰か来てくれるやろう。

占い師が向いている。

占い師になれ!」





夫はもともと、精神世界だのスピリチュアルだの占いだのに

全く興味も関心もない、普通の頭の固い男の人です(^^;



私の不思議なもの好きを、

笑われたり馬鹿にされたりすることはあっても

認められたことはなかったので、

最初はからかわれているとしか思えませんでした。




しかし、そんな夫が、

「お前が人を占ってあげてるのを見て当たってるなと感心していた」

と言ってくれた・・・


最初は占いを馬鹿にしていた人が、

私のタロット占いを見て、占いに対する認識を変えた・・・


こんな光栄なことがあるでしょうか。

これ以上の誉め言葉があるでしょうか。


夫のこの言葉に、

「私ってもしかしたら才能がある? 占い師になれるかも?」

と思わされました(^^)



こうして、夫に説得されるような形で

「占い師への道」を真面目に考え始めることに。



確かに私は小学生の時からタロット占いが好きで、

機会があるごとに友人知人を占ってあげていました。


でも、手引書と首っ引きの、

素人丸出しのお遊び占いでしかありませんでした。

自己流の独学でしたし・・・

とてもプロ占い師にはこのままではなれません!




その不安を夫に訴えると、

「全面的に応援するから勉強すればいい、

家事育児のこともお金のことも心配するな」

と言ってくれました。


夫もあの大喧嘩で色々と思うところがあったんでしょうね(^^;

耳が痛かったのでしょう(^^;

だから突然理解のある夫に豹変(^^;




   .。.・:*: ☆ .:*:・:'


しかし、よく考えてみれば、「占い師」は私が求めていた職業に限りなく近いかもしれない。

時間が経つにつれて、その夫の案に引きつけられる私がいました。



もともとタロット好き、占い好きである。

精神世界への興味と感心を生かせる。

悩んでいる人の話に耳を傾けることでその人を支えたい、

という想いが叶う。

心理学や傾聴やコミュニケーションへの興味と知識を生かせる。



職業名の“聞こえ”がアヤシイことなど、

どうでもよくなってきました(^^)


かえって、

「お仕事なんですか?って聞かれて“占い師です”って答えたら、

ウケるかなあ^^」


などと、ワクワクするようになったりして・・・(爆)


すっかりやる気が沸いてきた私が直面することになった次の壁。


それは・・・







占い教室が見つからない!






当時本州にいて、

今住んでいる北海道の山村よりはずっと便利な町だったのですが、

それでも地方都市。


通える範囲に占い教室が見つけられないのです。


電話帳を調べ、ネットで検索し、顔の広そうな友人知人に相談し・・・。


電話帳に載っていた近郊の占い師数人に鑑定してもらいに行き、

「占い師になりたいんだけど」と相談してみました。


鑑定結果としてはいいことを言われましたが、

占い教室の情報はありませんでした。


ネットで「占い教室」「占い講座」「占い師になりたい」などなど、

思いつくキーワードで検索してみたんですが、

当時はそんなに数がヒットしませんでした。



数少ないネット上の情報も、条件がなかなか合いません。

東京や大阪など、遠方で、しかも何ヶ月間か通うもの→却下。


講師の占い師の先生の人柄が尊敬できない

(クライアントさんの悪口を延々と書き込んであったりする)→却下



結局選考に残ったのは、通信教育でタロットを教えてくれる学校一つと、

「よーじゅのタロット講座」

その二つでした。


通信教育の方は、結構まとまった額を一括前払い。


特に誰かからの紹介とかではなく、

HP上の情報のみで判断するのは少し不安でした。


だいたい、通信教育で

プロになれるくらいの技量が身につくものなんだろうか?

願わくば、通信よりも対面で、手取り足取り教えてもらいたいものだ。


一方「よーじゅのタロット講座」は

“遠方からいらっしゃる方のための三日間集中講座もあります”とある。

そこで「ほほお?」とまず引きつけられた(^^)

よーじゅ先生のプロフィールなど、読めば読むほど惹きつけられる。



心理学、哲学、カバラ思想などにとても造詣が深いらしい。

タロットカードを

深層心理や精神分析や象徴学と結びつけて捉えている方らしい。

「まじない」「呪い」などのおどろおどろしい言葉が出てこない。

「霊感」という言葉も出てこない(私が霊感ないもので・・・)。

「ずばり当てます」みたいな売り文句もひと言も出てこない。

真面目に研究対象としてタロットカードを捉えている印象。


しかも、「週刊タロット占星術」コーナーなどがあり、

星座別の運勢が毎週掲載されているが、

それを読むと当たっている。


つまり、「当たる占い師!」さんなのだ。



Q&Aコーナーやコラムなどを読んでみても、

とても理性的でバランス感覚のある、

まっとうな物事の捉え方をする方。

狂信的という言葉からは遠い印象。

思索家の学者肌の、とても頭のいい方に違いない。




私は心理学者のユングが大好きなんです。

ユングは、易やタロットなど占いにも通じていて

共時性理論や共通無意識理論で占いを説明しようとした人です。


そんなユングの考え方に傾倒していた私にとって、

同じく心理学好き哲学好きのよーじゅ先生に、

占いへのスタンスが近い方、

価値観を共有できる方、

共通言語を持っている方、

という印象を強く持ちました。



しかも私と同年代で、同じ大学出身者!


学部は違うものの、

同じキャンパスを共有していた学部の出身者。


きっとキャンパスで、学食で、

何度かすれ違っていたんだろうなあ、と思うと親近感が・・・(^^)


私は

「とうとう師匠をみつけちゃったかも!」

という喜びと期待に胸を膨らませながら

よーじゅ先生に初問い合わせメールを送信しました・・・


(つづく)
posted by スピリチュアルコーチたまちゃん at 19:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 占い師への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

占い師への道 4

乾いた砂地が水を吸い込むようでした・・・。



よーじゅ先生のタロット集中個人講座での私の様子です・・・。

2002年の8月、暑い盛りのことでした。


当時神奈川県に住んでいた弟夫婦の

社宅に泊めてもらって宿泊費を浮かしながら、

私は三日間の集中講座に通いました。




久しぶりに、言葉の通じる人と、出会った。。。。



その喜びと満足感。




私は普通の人とは言葉が通じない、と感じてしまいます。

私は、自分の内面や人の内面などに関わる、深い話にしか、

興味を抱けない。


昨日見たテレビの話、お天気の話、噂話、、、、

普通の世間話にはついていけない。

どこでどう反応すればいいのか、わからない(;;)

どんな相槌を打てばいいのか、わからない(T T)

本当に、違う言語を話しているかのように、かみ合わない。



いつも、自分は誰とも言葉が通じない、

という孤独感を感じて生きていました。


たまには、通じる人もいるのです。

そういう相手とは深く長い付き合いが続きます。

お互いがお互いにとって希少価値があるので(^^;



でも、そんな相手と出会う確率は低いものでした。

子どもの小学校のお母さん友達、ご近所さん、、、、

何人新しい出会いがあっても、誰ともかみ合わない。



そんな中、久方ぶりに、言葉の通じる人と出会った!

それがよーじゅ先生でした。

ユングの話ができ、フロイトの話ができ、

錬金術の話ができ、シンクロニシティの話ができ、

ハイヤーセルフの話ができ、、、、


それだけでも十分嬉しいというのに、

ただ会話が成立したというだけじゃないのです!



その上に、よーじゅ先生が、私に新しい知識を教えてくれるのです!

私が興味ある分野の話を!




まさに、砂地が水を吸い込むよう、

乾いたスポンジが水を吸い込むようでした・・・

快感でした(;;)

幸せでした(;;)



この日を境に、私はライフワークを生きるようになっていきます。

ライフワークを生きている人間の周りには、

同じ波長を出す人が寄ってきます。


あの日から、私は徐々に孤独から抜け出しました。

新しく出会った人の、ほとんどが言葉の通じる人、という状況に、

いつしかなっていました(^^)


ソウルメイトに周りを囲まれ、

一緒に高みを目指す旅の仲間も、

“旅団”とでも言うべき数になっております(^^)


今となっては、あの頃の孤独に悩んだ日々がうそのようです。



自分がそんな経験をしたから、私は孤独な魂をほっておけない。

見つけ出したい。

そして「あなたは一人じゃないよ」と伝えたい。

「あなたらしさを、怖がらずに表現してごらん。

たくさんの人があなたの波長に引き寄せられて集まってくるから。」

と伝えたい。

その人らしさを表現し、

ライフワークを生きる人になるのを手伝う人になりたい。



私がブログに自分をさらけ出し続けるのも、

メルマガを発行し続けるのも、

色んなセミナーや講座を企画するのも、全部、そのためです。


孤独な魂を見つけ出すため。

名づけて、「醜いアヒルの子救出大作戦」。



あなたが周りの人と異なるのは、

あなたがアヒルの子じゃなくて、白鳥の子だったから。



どちらの方がえらいとか優れているとか、そういう比較の話ではなく。

最初っから異なる種だったのに、比べてもしょうがなかった、という話。

そして、あなたと同じ種に属する仲間も、ほらこんなにいるんだよ!と。

それを伝えていきたい。



あなたも、私の「旅の仲間」に加わりませんか?(^^)



/完



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posted by スピリチュアルコーチたまちゃん at 18:43| Comment(2) | TrackBack(0) | 占い師への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月19日

あたまにつまった石ころが【魂に効く絵本】

■日付

2006年6月30日(金)


■タイトル

あたまにつまった石ころが【魂に効く絵本】


■本文

 優れた絵本、児童書は、大人の心をもわしづかみにし、揺り動かします。



     まるで恋のように。


 
      ':・:*:. ☆ .:*:・:'



魂に効く絵本  〜絵本は恋に似ている〜 2006.6.30 第15号
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
『あたまにつまった石ころが』
キャロル・オーティス・ハースト 著 千葉 茂樹 訳
光村教育図書(対象年齢:およそ小学校中級以上)
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

あたまにつまった石ころが

あらすじ

切手にコイン、人形やジュースのビンのふた。
みなさんも集めたこと、ありませんか?
わたしの父は、石を集めていました。
周りの人たちは言いました。

「あいつは、ポケットにもあたまのなかにも
石ころがつまっているのさ」

たしかにそうなのかもしれません・・・

−−−−−−−−−−−−−−−


子どもの頃から石ころ集めに変わらぬ情熱を持ち続け、
どれだけ周囲の人に笑われても石集めをやめなかった、
作者の父の実話。

学歴はないけれど、
石を愛する気持ちは人並み外れていた。

大恐慌のさなか、その情熱と知識量を認められ、
科学博物館の鉱物学部長の座に
館長から推薦されるまでになる。

「ここに必要なのは、
あたまのなかとポケットが石でいっぱいの人なのよ。
あなたみたいにね。」


01年度ボストングローブ・ホーンブック賞
ノンフィクション部門オナー賞受賞作。




   .。.・:*: ☆ .:*:・:'




肩の力の抜けた走り書き調のペン画に

透明水彩で色づけした、

さらりと軽やかな絵柄のごく薄い絵本。


でもその軽やかさにだまされてはいけない。


この絵本は、子どもたちに

自分の個性をいかに生かして

社会に貢献していこうかを考えさせる、

絵本版「13歳のハローワーク」なのだ。


自分の「好き」と「ワクワク」を追求しよう。

自分を殺すことで、ではなく、

生かし切ることで、社会に貢献しよう。


こんな人間として生まれてきたことには、なにか意味があるはず。

自分をこんな人間に作られたのには、神様に何か意図があったはず。


何をしているときが一番ワクワクするのか、

そのワクワクセンサーに従って生きていこう。


自分を生き生きと輝かせることは、

その光で社会を照らすことだ。

それこそ社会貢献への一番の近道なのだ。


中学生や高校生など、これから社会へ出て行こうとする世代に

読み聞かせしてみたい。




   .。.・:*: ☆ .:*:・:'




ここで間違ってはいけないのは、

「好き」と「ワクワク」を追求することは

「好きなことしかしない」ことではない、ということ。


好きなことに邁進していく道は、いばらの道だ。

周囲の人は「そんなことしてなんになる?」と

こぞってあなたを笑うだろう。

次から次へと、障害が前に立ちはだかるだろう。


「好き」なことのために、

イヤなこと、苦手なこと、つらいことに挑戦しつづけざるを得ないだろう。


  この「好きなこと」さえあきらめてしまえば、

  どれほど楽になれることか。


  周囲の期待や状況に流されて生きれば、

  どれほど楽だろう・・・。



あなたの頭を、そんな考えが何度もよぎるはずだ。




好きなことを追求していくことと、

好きなことだけやっていくのとは違うのだ。


好きなことを追求するためには、困難に立ち向かい続けなくてはいけない。


人生、なにをやっていても試練はやってくる。


しかし、それが好きで、あきらめきれないことならば、

その試練に立ち向かい続け、それを乗り越え続けないと仕方がないのだ。



  「成功の方程式」はよく言われるように

  「失敗+失敗+失敗+・・・・・=成功」の形を取る。



数知れない失敗のあとに初めて得られるもの、それが成功。



次々に経験する挫折と紆余曲折を乗り切るために、必要なもの。


それは「それが好き」という熱い想い、熱い情熱。


「それが好きなんだ」「それがやりたいんだ!」という想い。





イメージは、ジブリのアニメ映画『天空の城 ラピュタ』で、

シータの胸に下がった飛行石のペンダントから発する一筋の光。

それは、レーザー光線のように、まっすぐにラピュタを指し示す。



  ラピュタはあなたが追い求め続けずにはいられないものの象徴。


  ラピュタを真っ直ぐに指し示す一筋の光は、

  あなたを内側から駆り立てずにいられない想いの象徴。


  それは、視覚化された「好き」と「ワクワク」。




あなたの胸からまっすぐに伸びた光は、どこを指し示しているだろう?




自分の「好き」と「ワクワク」を追求しよう。


何をしているときが一番ワクワクするのか、

そのワクワクセンサーに従って生きていこう。


自分を生き生きと輝かせることは、

その光で社会を照らすことだ。

それこそ社会貢献への一番の近道なのだ。





        .。.・:*: ☆ .:*:・:'








あなたは、あなたの飛行石が指し示す方向へ歩んでいますか。



自分を殺すことで、ではなく、

生かし切ることで、社会に貢献しよう。


こんな人間として生まれてきたことには、なにか意味があるはず。

自分をこんな人間に作られたのには、神様に何か意図があったはず。


あなたには、呼ばれている場所があり、

待っている人たちがいる。

はるか彼方からあなたの魂に呼びかける、

あなたにとってのCallingにぜひ従って欲しい。



あなたもライトワーカーの一人として、

自分自身を輝かせよう。

そのまばゆい輝きで、一隅を照らそう。



−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


「父が情熱をかたむけたのは、石や鉱物だけではありませんでした。
「学ぶ」ということそのものをこよなく愛し、尊重していたのです。

この絵本では紹介できませんでしたが、
博物館の鉱物学部長になった父は、働きながら大学に通いました。

ジョンソンさん(博物館館長)の計らいでした。

大学の若い同級生たちは、父を「おじいちゃん」とよんだといいます。
でも、その頃には、そうよばれてもちっともおかしくない年に
なっていたのです。

ジョンソンさんが退職すると、
その後を次いでスプリングフィールド科学博物館の館長に
就任したのは、なんと私の父でした。

父ほど幸福な人生を送った人を、私は他に知りません。」

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

著者による後書きより。



『あたまにつまった石ころが』
キャロル・オーティス・ハースト 著 千葉 茂樹 訳
光村教育図書(対象年齢:およそ小学校中級以上)




        .。.・:*: ☆ .:*:・:'





この絵本を書店で立ち読みしたとき、

軽やかで明るいハッピーな絵本なのに、

涙があふれてきた。


許されたように感じたのだ。


私は、絵本が好き、児童文学が好き。


子どもの頃から、本を読み出すと話しかけられても聞こえなかった。

学校の休み時間もずっとひとりで本を読んでいた。


学校の行き帰りも、本を読みながら歩いたので、

ときどき電柱にぶつかった。


親からは「読み過ぎ!目が悪くなる」と小言をいわれつづけ、

周囲からは変わった子扱いで、浮きまくっていた。



大人になり、結婚してからも、

気に入った本は多少高くても買わずにはいられない。


夫は「これがなんになる」と渋い顔をした。



周囲から理解されず、ずっと肩身の狭い思いで生きてきた。

そんな私を、許されたように感じたのだ。




立ち読みしおわったとき、涙を手の甲でぬぐいながらこう思った。

「私の頭の中には子どもの本がつまっているんだ。」


「この絵本の主人公は、
好きな石ころを大切にすることを止めなかったことで、
結果的に周囲の役に立ち、重用されるようになった。

だったら私も、

子どもの本を集めることは何の役にも立たない
無駄な行為だなんて
自分を責めなくてもいいんじゃないだろうか。

この本を買ってもいいんじゃないだろうか。」



だから、この絵本をレジまで持って行き、買った。




あれから数年。

私はこうして絵本・児童文学のメルマガを書き、

読み聞かせのワークショップを開くようになっている。



好きなことを追い求め続ければ、

必ずやなにかの形で誰かの役に立つことができる。

その知識とその情熱を評価される時が来る。



好きなことをあきらめるのではなく、

生かすことで、社会のお役に立っていこう。



自分を殺すことで、ではなく、

自分の個性を生かし切ることで、社会に貢献しよう。


こんな人間として生まれてきたことには、なにか意味があるはず。

自分をこんな人間に作られたのには、神様に何か意図があったはず。


私たちには、呼ばれている場所があり、

待っている人たちがいる。


私たちもライトワーカーの一人だ。

自分自身を輝かせ、その光で、社会の一隅を照らそう。




魂に効く絵本 〜絵本は恋に似ている〜
という今はもう廃刊にしてしまったメルマガに掲載していた記事を
収録しております。

あたまにつまった石ころが


posted by スピリチュアルコーチたまちゃん at 16:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 魂に響く絵本・児童文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【魂に効く絵本】『イオマンテ』いのちの重み、食の重み

 優れた絵本、児童書は、大人の心をもわしづかみにし、揺り動かします。



     まるで恋のように。


 
      ':・:*:. ☆ .:*:・:'



形態は絵本ですが、字数が多くて内容も高度。

児童書の範疇に入れた方がいいでしょう。

おとなにもずっしりと響きます。


魂に効く絵本  〜絵本は恋に似ている〜 2006.5.12 第14号
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イオマンテ
  寮 美千子 作、パロル舎(小学校高学年くらいから)
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 〜あらすじ〜

「今日は山へ、キムンカムイ(山の神様)をお迎えに行くぞ」

早春の山に猟に出かけた父さんは、三日後、

たっぷりの熊肉と立派な毛皮、

  そして、生まれて間もない熊の子を連れて 帰ってきた。


母さんが熊の赤ちゃんをすぐに抱き取った。

「おおよしよし。寒かったでしょう、怖かったでしょう」

そう語りかけて、自分のおっぱいを含ませる。


その夜、コタン(村)のどの家も、お腹いっぱい、

おいしい熊肉のオハウ(煮込み)を食べた。

お父さんが背負って持ち帰った肉だ。


それ以来、熊の子と僕は、きょうだいのように暮らした。

同じ布団に寝て、同じご飯を食べた。

外でコロコロ遊んだ。

いっぱい相撲も取った。

熊の子が迷子になったとき、僕は青くなって必死で探した。

やっと見つけたとき、

熊の子は、切ない声を上げてまっすぐ僕に向かって駆けてきた。


それから約一年近くたった真冬のある日、

ずいぶん大きくなった熊の子が突然、

降りしきる雪に けだもののような声で吠えかかり始めた。


驚いて熊の子を懸命になだめようとする僕に、父さんは言った。

  「心配するな。そろそろカムイの国に帰りたくなったんだ」

  「カムイの国って?」

  「この子の母さんのいるところさ。

  この子の母さんはね、

  たくさんの肉を背負い、毛皮の服を着て

  カムイの国から遊びにきてくださった。

  そしてこの子を私たちのところにあずけ、

  カムイの国へ帰っていかれた。

  今頃はカムイの国で、この子が来るのを、

  今か今かと待っておられるだろう。」

  父さんは、僕の方にそっと手を置いた。

  「だから、この子を送って差し上げよう。
             カムイの国へ。」(p28より)



         ・
         ・
         ・




      ‘:・:*:. ☆ .:*:・:'




アイヌ民族の荘厳な儀式、熊送り(イオマンテ)を通して

「いのち」の重さ、

その重い「いのち」を食事としていただくことの痛みを

詩のような美しい文体で秀逸に描き出した、名作。


大切に大切に育てられた熊の子は、

イオマンテの祭りの中で殺され解体され、

その肉は村中の人にふるまわれる。


熊の子をただ飼って太らせて、屠るのではない。

決して家畜ではないのだ。

カムイ(神さま)の化身を、お預かりして、またお見送りするのだ。

ぜひまた、この人間の里へ遊びに来て下さい、という祈りをこめて。



我が子同様に育ててきた村の女も、

きょうだい同様に暮らしてきた子ども達も、

胸のつぶれる想いに耐え、泣きながら敢えてその肉を口にする。



  それから、肉のオハウが出てきた。

  あぶらみばかりの、

  とろりとおいしい、あつあつのオハウだ。

  おいしい、おいしいとぼくはたべ、

  それからふいに思い出した。


  これは、あの子熊の肉。

  ついさっきまで、子熊だった肉。

  ぼくは、子熊をたべている。


  ああ、あのときもそうだった。

  子熊がここにきた夜に、

  おなかいっぱいオハウをたべた。

  あれは子熊のかあさんの肉。

  ぼくは、子熊のかあさんをたべたんだ。


  それだけじゃない、みんなみんな、

  兎も、鹿も、さけやますも、

  ぼくはいのちをたべている。

  みんなのいのちをたべている。

  ぼろぼろ、なみだがこぼれてきた。(p46より)



エカシ(長老)が言う。

「泣くんじゃない。

子熊のカムイが悲しまれるぞ。

さあ、楽しく送って差し上げよう。」



わざわざ肉と毛皮を背負って

カムイの国からはるばる来て下さったカムイを、

精一杯のおもてなしで楽しませ、送るために、

イオマンテの夜は、

村中で夜通し、飲んで歌って踊って食べ、楽しく笑いさざめく。

カムイを喜ばせるために。



      ‘:・:*:. ☆ .:*:・:'



カムイからのお預かりものである幼い熊の子を、

家族同様に、大切に大切に、愛情を注いで育て、

時がくれば

たくさんの捧げものとお供えを何日もかけて入念に用意し、

敬意と礼儀を尽くした儀式でお送りする。



ただ送るだけではない。

ついさっきまで抱きしめ頬ずりしていたその愛しい身体に包丁を入れ、

料理して、食べる。

涙にくれ、そして心から敬意と感謝を捧げながら。

また会えることを、カムイとして再び訪れてくれることを、

心から祈りながら。



自分たちが、大いなる大自然の一部として生かされていることを肝に銘じ、

普段、何気なく口にしている命の尊さを体で思い知るための仕組みとして、

これ以上の仕組みがあるだろうか。


この仕組みを「祭祀」とした狩猟採集民族、アイヌの民の

その叡智の深さ、その生命観の厳しさ。

大自然に対する畏敬の念と、感謝の念の、深さ。

その、謙虚さ。



      ‘:・:*:. ☆ .:*:・:'



自分たちがいただいている命の尊さを体で思い知る。

普段何気なく食べている肉は、さっきまで息づいていたいのち。

つぶらな瞳と温かな肌を持っていただろう、誰かの子ども。

誰かのきょうだい。

誰かの親だったかもしれない存在。


肉だけじゃない。

魚はもちろん、野菜だって、いのち。



私たちは、他者のいのちをいただかなくては、生きていけない。

光合成をしている植物以外、どんな生き物も、

他者のいのちを分けてもらわなければ、生きていけない。

私たちは、地球上を循環しているいのちの一部。

死んで、他のいのちの一部となり、

生まれて、

他のいのちを取り入れ続けて生き延びていく。



私たちは、生かされている。

他のいのちの累々たる屍の上で、生かされている。


その厳しさ、その責任を、甘んじて引き受けて生き続けるしか、ない。

与えられたこの命を、

引き継ぎ、十全に生かしていくしか、その重責に応える術は、ない。




私たちは、命をいただいて生きている。

命は、こんなにも尊い。

命を奪う行為というのは、こんなにも重い。



私たちは、スーパーでパック詰めの肉や魚を買うとき、

野菜を買うとき、

どのくらいその痛みやその重さを感じているのだろうか。


どのくらい感謝していただいているのだろうか。




  だから、こどもたちよ、よくおぼえておくんだ。

  一粒のあわもひえも、

  一切れの肉も魚も、みんないのち。

  わたしたちは、いのちをたべている。

  いのちと魂との、おおきなめぐりの中にいる。

  すべては、めぐるいのちのめぐみ。

  すべては、めぐるいのちのめぐみ。(P64より)





      ‘:・:*:. ☆ .:*:・:'



イオマンテ

『イオマンテ』 寮美千子 文 /小林敏也 絵 出版社:パロル舎
(小学校高学年くらいから)



      ‘:・:*:. ☆ .:*:・:'



「生かされていることに感謝し、

その尊さその重さをひしひしと感じながら、

他の命を謹んで食すこと」


「大いなるいのちの流れの一部にすぎないことを良く認識して、

謙虚に、対等に、他のいのちを遇すること。」


私たちは、残念ながら、他の命の累々たる屍の上にしか、

生きていられないのです。

いえ、それを「残念ながら」と表現するのが

おこがましいかもしれません。



大いなる命の流れの一部として内包されていることを喜び、

感謝しながら、と表現するべきなのかもしれません。



私たちは生かされていて、そして大きないのちの流れの一部。

私たちは、孤独ではない。

私たちは、分断されていない。

私たちの身体を構成する分子は、すべてこの地球の一部。

ビッグバンの昔から、

恐竜の身体の一部だったりマンモスの身体の一部だったり、

生々流転を繰り返してきた分子で、

私たちの身体は構成されている。



私たちの身体は、この地球に属している。

他のすべてのいのちときょうだい。



すべて一緒なのかもしれません。

どちらがどんなタイミングで食べられようとも。


これがワンネス。

これが種を超えた愛。



どの「いのち」も光。

その「いのち」も、大切な輝く存在。

どの「いのち」も、誰かのこども。誰かのきょうだい。

でも、私たちはそんな重いいのちをいただかなくては生きていけない。

私たちは、そんな唯一無二の愛しいいのちを食べ続けて、今日がある。


その重み、その痛みを感じることこそ、

「種を超えた愛」を感じることではないか、と思うのです。




魂に効く絵本 〜絵本は恋に似ている〜
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『台所のマリアさま』聖なるものとの絆を切望するたましいのうずき

■日付

2006年2月4日(土)


■タイトル

『台所のマリアさま』聖なるものとの絆を切望するたましいのうずき


■本文

 優れた絵本、児童書は、大人の心をもわしづかみにし、揺り動かします。



     まるで恋のように。




      ':・:*:. ☆ .:*:・:'





しばらく間があいてしまいました・・・。

ちょっとスランプに陥ってました(^^;



二ヶ月ぶりの今号で取り上げるのは『台所のマリアさま』。
  
絵本ではありません。薄い小さな本ですが、児童書です。


魂に効く絵本  〜絵本は恋に似ている〜 2006.2.4 第13号
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台所のマリアさま

  ルーマー・ゴッデン 作、評論社(小学校高学年くらいから)

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 〜あらすじ〜
グレゴリーは孤独だった。


優しいけれども多忙で、いつも家にいない両親、

やってきては去っていく お手伝いさんたち。



いつのまにかグレゴリーは他者に心を閉ざし、

「自分のことにしか興味がない」と

嘆かれる少年になってしまっていた。






 そんなグレゴリーの家に、マルタが来た!



マルタは今までのお手伝いさんとは違う。


グレゴリーがいつ学校から帰ってきても、

必ず台所にいる。


  そして、ずっとこの家に居ると言ってくれる。





グレゴリーは言う。

「お手伝い? とんでもない! マルタは“家”だよ。」






マルタはウクライナ難民。


ときどき、二度とは戻れぬ 遠い故郷を恋しがり 

  たどたどしい英語で訴える。



「ここには“いい場所”がありません。

私たちの家には、必ず“いい場所”がありました。」


「ウクライナ人の台所には、

必ずマリア様と幼子キリスト様の絵をおまつりします。

ただの絵ではありません。

布を貼って服にし、ビーズや金で飾ってあるものです。

そして、その聖画の前にランプをともします。


一日中私たちはそれを見るんです。

台所は暗いけど、ランプと絵は光っているんです。

部屋のどこにいても、

マリア様と幼子の顔がこっちを見てるんですよ。

でも、ここにはそれがない・・・。」





  マルタの悲しむ顔を見たくない!


マルタの思い出にできるだけ近い聖画を求めて、

グレゴリーの奮闘が始まった。



外界との関わりを拒んでいた少年が、

その幸せを心から願わずにいられない存在を得たとき


        すべては変わり始めた・・・




      ‘:・:*:. ☆ .:*:・:'




聖なるものとの絆を切望する、たましいのうずきを、



そして日常生活の中の「祈り」の大切さを描いた名作。





      ‘:・:*:. ☆ .:*:・:'




マルタの求めるような「聖画」は、子どものお小遣いではとても買えない。

グレゴリーはそのことに気づいてもあきらめなかった。

驚くべき忍耐強さで 手作りに挑む。



あれほど他人と関わることを拒んでいた少年が、

理想の聖画を追い求めるためには、

人見知りを克服して外へ外へと出かけていく。



博物館、教会、宝石商・・・



初めて入る帽子屋さんで、

「キレイな端布を分けてもらえませんか」と頼む。



目も合わさないようにしていた近所のお菓子屋のおばさんに、

お菓子を包んでいるキラキラ輝く紙が必要なことを話す。



今まで妹にも触らせたことのない大切な船の絵の背景を切り抜く。

それが一番聖母子像の背景に似合いそうだったから。



創意工夫を凝らし、時間をかけ手間を掛け、

自分が大事にしていたものも差し出して

聖画はとうとう完成した。



それは「祈り」の過程だった。



良いもの、美しいものを、心を込めて創り上げる行為は、

そのまま「祈り」なのだ。


誰かの喜ぶ顔が見たいがために、

一心に美しいものを作る行為は、まさに「祈り」そのものなのだ。



だからこそ、芸術と信仰は常にワンセットだった。

最高の芸術は、常に、謙虚な祈りに満ちているのだ。





聖なるものへの希求を込め、

愛する人の喜ぶ顔を思い浮かべながら、

コツコツと手間を掛け時間を掛け、

想いを注ぎ込まれて創り上げられた作品に



     魂がこもらないわけがあろうか。


     人の胸を打たないわけがあろうか。




逆に言えば、そのように作られたものでないものが、

人の心を打つことはあり得ないのだ。






      ‘:・:*:. ☆ .:*:・:'




聖画というのはただの絵じゃない。

この地上の世界と天国とを結びつける役割をするもの。

神聖なものに向かって開かれているひとつの窓。




近代的なしゃれたデザインの台所にタマネギを吊すマルタ。


地から生えてきたような、土の匂いのぷんぷんするマルタ。


だからこそ、グレゴリーは安心することが出来た。






そして、天上の世界と結びつく窓がその台所に開いたとき、

全てはつながる。




地と天は結ばれねばならない。

天と地をつなげるパイプが必要なのだ。

どちらとのつながりも、切れていてはいけないのだ。




マルタが家に来てくれる前のグレゴリーは、

どんな存在ともつながりが持てていなかった。

だから孤独だったのだ。




マルタは、土とのつながりを体現した存在だった。

マルタを得てまず安定したグレゴリーの精神は、次は天上を目指す。




マリア様の聖画が完成し、


   “いい場所”が台所に出現したとき、パイプは通る。





      ‘:・:*:. ☆ .:*:・:'





  マルタは“いい場所”を見たとき、棒立ちになった。

  それからマルタはゆっくりと手を上げた。

  その顔つきが完全に変わった。

    (中略)


  それからマルタは話し始めた。

  マルタの口にする言葉を理解したものはだれもいなかった。

  しかし、ジャネットでさえも、

  それが感謝と賛美の祈りであり、歌であることはわかった。

  その声は朗々とあたりにひびきわたった。


    (中略)


  一言もわからないままに、

  その言葉はグレゴリーの胸にくいこみ、その体をゆさぶった。



     『台所のマリアさま 』 ルーマー・ゴッデン 作、評論社
     P110より抜粋





      ‘:・:*:. ☆ .:*:・:'





  chant という英単語がある。

  「歌う」という意味、

  「(祈りや魔法の呪文を)唱える」という意味がある言葉。




そしてまたサンスクリット語には、shanti という言葉がある。

“大いなる平安” “全ては祝福されている”という意味。



chant と shanti 、音の響きも意味にも共通点がある。




  チャントという言葉には言霊がある。

  日本語の「ちゃんと」にも同じ言霊がこもっている。



つまり、「ちゃんとやる」というのは、

「穏やかな心で祝福を込めて為す」ということではないかと。


   「ちゃんと」やる、ということは、

   「想いを込め、祈りながら」やる、ということなのだと。





マルタの言う「いい場所」とは、

「ちゃんとした場所」、祈りの場所、平安の場所だった。





「ちゃんと料理する」

「ちゃんと掃除する」

「ちゃんと片付ける」

「ちゃんとした暮らし」

生活そのものが祈りである暮らしも可能なのだ。

その豊かさ。



人が住んでいる家と、空き家と、一目でわかる。

オーラが違うから。


誰かから慈しまれている存在は、

輝き、温もり、生気、まとっている空気が違う。



日々の生活に想いと祈りを込めていくと

生活空間がほのかな光で包まれる。




あなたの住空間は「祈り」のオーラをまとっているだろうか。

あなたの身近な人は「愛されている」オーラをまとっているだろうか。




あなたは「ちゃんと」生きているだろうか。





        .。.・:*: ☆ .:*:・:'




人は、天とも地とも、つながりが切れては、健全に生きられない。


聖なるものとつながる窓が、必要なのだ。

地なるものとつながるための温もりと安心感が必要なのだ。



そして、その両方をつなぐためのパイプが、必要なのだ。


そのパイプが、「祈り」。



人には、「祈り」が必要なのだ。



ちゃんと生きること。

ちゃんと、日々の生活を送ること。

丁寧に、心を込め、祝福をこめて、日常生活を送ること。





      ‘:・:*:. ☆ .:*:・:'



  『台所のマリアさま
   ルーマー・ゴッデン 作、評論社
   (小学校高学年くらいから)




魂に効く絵本 〜絵本は恋に似ている〜
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この世界に恋して

■日付

2005年12月1日(木)


■タイトル

この世界に恋して


■本文

私の暮らす北海道の山村では、もう一週間くらい前から銀世界です。
(今日なんか、吹雪だったりします^^)

でも、本州ではまだ紅葉だったりするのですね!


では、この絵本もまだ遅すぎない?とあわてて取り出した一冊
  

メルマガ魂に効く絵本  〜絵本は恋に似ている〜 2005.11.30 第12号

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『ボビーとそらいろのヨット 』

  マーガレット・バーディック 作、童話館出版(3歳くらいから)

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 〜あらすじ〜


  ボビーはカワウソの男の子。

  ある秋の日、アナグマさんのお店で、素敵なヨットを見つけました。

  
  大きな白い帆のついた空色のヨット。

  「ビーバーさんの作品。いいものと交換します」
                  の札がついてました。



  こんな素敵なヨットと交換してもらえるほどの「いいもの」って
  いったいなんだろう?


  きれいに色づいた森の木の葉は すぐに茶色くなってしまう。

  おいしい小枝は 食べたらなくなってしまう。

  川底できらきら輝く小石は 乾いたら何でもないただの小石。


  

  なかなかいつまでも喜んでもらえるものが見つけられません。



  夕日を眺めながらヨットのことばかり考えていた日の夜、

  ボビーは空色のヨットで遊ぶ夢を見ました。



  ヨットは金色の夕焼けの海に浮いていました。

  帆は、綺麗な秋の森の色。

  空のお月様は、きらきら光る小石のようでした。


  次の朝、目が覚めるとすぐに、

  ボビーは絵を描き始めました。




  美しい色の絵の具で、夕日のしずむ、カエデの森を描きました。

  そのなかにきれいな木の葉と小枝と、
 
  きらきら光る小石を、いっぱい描きました。



   「すばらしい絵だよ、ボビー!」とアナグマさんがいいました。

   「これなら空色のヨットと交換してあげるよ。

      きっとビーバーさんがいつまでも喜んでくれるからね。」





      ‘:・:*:. ☆ .:*:・:'






この美しい世界に恋して、恋いこがれて、

その想いの結晶が「芸術作品」なのだ。



いくら心奪われても、

決して手の中にとどめておくことのできないもの。


 秋の森の 木の葉の色。

 金色の 夕焼け。

 濡れた小石が 川底で日の光を反射する。


 帆に風をみなぎらせたヨットが描く マリンブルーの海の白い航跡




「恋う」は 「請う」であり

      「乞う」である。


どうかもう少し近くに、と請い願うこと。


どうか触れさせてください、と、

どうか一瞬でも長く ここにとどまってください、と乞うこと。



「恋」は「来い」にもつながる。

決して手に入らぬもの、決して手に届かぬものを、

声をからして呼ぶ声。


それが、芸術作品を生み出す原動力。



決して手には入れることが出来ないけれども、

希求することをやめることもできない 崇高なものへの憧れ、恋。


決して所有することのできないものから引き起こされる心の震えを 

いかに上手く再現するかの 技術の追求に、

その恋うる想いを昇華させる。


それが芸術。




ビーバーさんは大きな白い帆を張った青いヨットの姿に

なにかをかき立てられたのだろう。

だから模型を作らずにいられなかった。


その心の震えや胸の高まりを

もう一度呼び起こしてくれるほどの質の高さを目指して、一心に。



ビーバーさんの感動と憧れがこもり、

手塩にかけて丁寧に作られたヨットは、

同じくらいの想いと熱意の込められた

ボビーの絵となら、交換できた。


良い作品はそれなりの対価を求めるのだ。




この絵本の最後のページで、

ビーバーさんはボビーの描いた絵を眺めながら、手仕事に励んでいる。

窓の外は雪景色。

雪に閉ざされた冬の間、ビーバーさんは温かい室内で、

木を削って新しい作品を作りながら、ボビーの絵を愛でる。


身の回りの世界の美しさに、幼い少年が息をのみ、目を見張った。

その純粋な悦びと驚きがそのまま表現されている、絵。

冬の過ごし方として、なんて豊かなことだろう。





      ‘:・:*:. ☆ .:*:・:'




一瞬のきらめき、一瞬の感動を

     形にしてとどめておきたいのだ。


その心の震えや胸の高まりを

もう一度呼び起こしてくれるもの。

それを所有したいのだ。




私たちはこの地球に恋して生まれてきた。

その美しさに触れる度に胸が躍る。

心の琴線が高鳴る。



恋いこがれるばかりで

決して手に入れられない はかなくも崇高な現象たち。


 蜘蛛の糸につらなる朝露。

 雨上がりの虹。

 真っ黒い雨雲を切り裂いて走る稲妻。

 天青石の空に浮かぶローズクォーツの夕焼け雲。

 美しく咲き誇り、あっという間にしおれていく花々。

 あどけなさをすぐに卒業してしまう幼子たち。

 いずれ 別れの時が来る 愛する存在たち。



決して手中に収めておくことは出来ないけれども、

希求することをやめることもできない。



私たちは その苦しい恋を 芸術に昇華し続ける。



どうかもう少し近くに、どうか一瞬でも触れられますように、

と請い願う。


どうか一瞬でも長く ここにとどまっていてくださいと乞う。



その想いこそが芸術作品を生み出す原動力。





      ‘:・:*:. ☆ .:*:・:'




動物たちが主人公の可愛らしいミニサイズの絵本。

でもその可愛らしさにだまされてはいけない。

この絵本には、「芸術とは何か」がつまっているのだ。



幼いうちにぜひ出会って欲しい一冊。




      ‘:・:*:. ☆ .:*:・:'




『ボビーとそらいろのヨット』 
マーガレット・バーディック 作、 わたなべ しげお 訳
童話館出版(読んであげるならおよそ三歳から)


魂に効く絵本 〜絵本は恋に似ている〜
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エルマおばあさん

■日付

2005年10月28日(金)


■タイトル

エルマおばあさん


■本文

木の葉が色づき、舞い散る 晩秋となりました。

ここ 北海道では、初雪も舞いました。


全ての生命活動が一旦休止するかに見える、

北の国の厳しい冬の訪れです。



そこでこの季節、「死」を見据える絵本を選んでみました。

  

魂に効く絵本  〜絵本は恋に似ている〜 2005.10.27 第11号

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『さよなら エルマおばあさん 』

  大塚 敦子  写真・文、小学館(10歳くらいから)

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 〜あらすじ〜


  ある夏の終わり、エルマおばあさんは、お医者さんから、

  病気でもう長くは生きられない、と言われました。





著者の大塚敦子さんと 以前から家族ぐるみのつきあいで、

孫のように可愛がってくれていたというエルマおばあさん。



その大塚さんが、許可を得てエルマおばあさんの自宅に住み込み、

介護を手伝いながら撮った写真で構成された

ドキュメンタリー写真絵本。



外出前にお化粧するエルマおばあさん。

老人クラブの朝食会で友人たちと談笑するエルマおばあさん。

庭で草花の世話をする姿。



その後、

 ゆっくりと 衰弱していくエルマおばあさんの姿。



  「それは、体が旅にでる準備をしているからなんだよ」
  本書19pより



点滴を付けた寝姿。

そして、延命治療をしないで欲しい、という要望書に
サインするシミの浮いた手。


弟との、子どもたちとの、親戚たちとの、

別れを惜しむシーンの数々。




とうとう、歩けなくなります。


酸素吸入器の細いチューブを鼻に刺した顔は、
以前よりも 一回り小さく見えます・・・。



  そして、まるでゲームでも楽しむみたいに、
  こんなことも言いました。

  「わたしは、自分の死ぬ日を決めたからね。

  その日付を紙に書いてかくしておいたから、

  私が死んだあと、さがしてごらん。」   p43より





そしてある日、

その日がエルマおばあさんの決めた日だ、ということが、

家族にもわかりました。



その夜、みんなは寝ないでエルマおばあさんにつきそいました・・・





      ‘:・:*:. ☆ .:*:・:'





 “この本は、子どもたちだけではく、お父さんお母さんにも、

 ぜひ読んでいただきたいと思います。

 そして、子どもといっしょに、

 「人の命には限りがあり、だれにも必ず死を迎えるときがくること」や

 「死が訪れる瞬間は苦しくないこと」を

 話し合ってほしいと思います。”

   本書の帯より(ホスピスケア研究会代表 季羽倭文子さんの言葉)




      ‘:・:*:. ☆ .:*:・:'





エルマおばあさんの淡々とした姿。

それが写真である、という重み。

迫り来るリアリティ。




最後まで、強いまなざしを持ち続けていた彼女。


しわくちゃの、一回り小さくなった顔の中の

意志に満ちたまなざし。

力強い瞳。




それは、


  自分の死に方を自分で決めた満足感と誇りで


        輝いているのだ。





      ‘:・:*:. ☆ .:*:・:'





死は破滅でも敗北でもない。

死は忌むべきことではない。


人生という作品の大切なエンディングなのだ。

クライマックスを経たあとのエンディング、大団円。


一年は、冬があって初めて完全な一年なのだ。

1日は、夜があって初めて完全な1日なのだ。



天寿を全うした老人の死は、

季節が来て舞い落ちる木の葉のように静かで

そして 尊厳に満ちている。



それは、物事のあるべき姿を思い起こさせる。



季節は巡る。

夏が過ぎ、青々としていた木々の葉は 色を変えていく。

そしてある時、そのときが来たことを知る。

葉は、風に手を取られ そっと枝から離れる。

旅立つ。

それはとても自然なこと。





      ‘:・:*:. ☆ .:*:・:'





考えてみれば、


今まで生きてきた数え切れない数の先人たちも、

一人残らず死んだのだ。


今生きている私たちも一人残らず死に向かいつつあるのだ。


誰一人死を免れないのだ。

むやみに恐れることはないのだ。

誰にだって訪れることなのだ。

全員が通り抜けるところ。




  すごく普通のこと。

  特別なことじゃない。





命は大いなる流れに浮かぶ泡沫だ。

かつ消え、かつ結び、を繰り返す。

泡が消えても、元の流れに戻るのみ。

そして、また泡を結ぶこともあるのだ。





      ‘:・:*:. ☆ .:*:・:'





しかし、死は痛ましい。

 嘆きと 喪失の哀しみに 満ちている。



パール・バックの「母の肖像」の中の一節を思い出す。




   「(こどもは天国で安らかにしていると)考えたからといって、

         母親の腕と心が充たされると思うんですか?」


            (中略)


   「肉体は何でもないでしょうか? 

    私は自分の子どもたちの肉体を愛しました。(略)

    私が生んで、可愛がって、洗ってやり、着せてやり、

    面倒を見てやった肉体は、私には貴重な宝です。」
  
         『母の肖像』P・バック 新潮文庫p123より
    




私たちは地上で生きている。

肉体をまとって生まれることを選んだのは、
五感で生きることを味わうため。

感覚や感情を通して事物と関わるため。

肉体を通して他者と関わるため。



 「海が大陸をつなぐように、

   感情が私たちをつなぐよすがなのです」

              本田健さんの言葉より。




肉体を通して、私たちは触れあう。

感情を通して、私たちは触れあう。



地上の肉をまとって、

初めて私たちはお互いの重みと温かさを知ることができる。



子どもの身体のずっしりした温もりを膝に感じ、

恋人の髪の感触にドキッとし、

老いた母の細い肩をもみながら 

  幼い日に抱きしめられた 母親の力強い腕を 思い出す。



肉体が喪われるとき、

私たちは触れあえなくなる。

お互いの温もりを感じることが出来なくなる。



それを嘆くのは当然のこと。

去る者も残されるものも 名残を惜しむのは当然のこと。




死は破滅でも敗北でもない。

むやみに恐れることではない。

忌むべきことではない。

しかし、一時の別れとはいえ、別れは別れなのだ。


文字通り、今生の別れを

心ゆくまで悼み、大いに嘆き、惜しもう。


それができて、初めて私たちは心の平安へと行き着くのだ。





      ‘:・:*:. ☆ .:*:・:'





一人の老女の いのちが燃え尽きるさまを淡々と記録し
その後の喪失の空間の痛みまで切り取った、感動の一作

『さよなら エルマおばあさん 』
  大塚 敦子  写真・文、小学館(10歳くらいから)




魂に効く絵本 〜絵本は恋に似ている〜
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家族全員で 幸福探しの旅【魂に効く絵本】

■日付

2005年9月23日(金)


■タイトル

家族全員で 幸福探しの旅【魂に効く絵本】


■本文

魂に効く絵本  〜絵本は恋に似ている〜 2005.9.24 第10号

キノコ採り、果物狩り、芋掘り・・・

秋って、狩猟採集時代の古いDNAが騒ぐ季節。

実りの秋。

そんな秋の景色が美しく描かれる絵本を取り上げてみました。




   ☆「家族全員で 幸福探しの旅」

             がテーマの 絵本 ご紹介



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14ひきのひっこし 』 14ひきのシリーズ

  いわむら かずお  文・ 絵、童心社(読んであげるなら3歳くらいから)

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 〜あらすじ〜

お父さんお母さんに

子どもが10人。

それにおばあちゃんおじいちゃん。

三世代、総勢14匹のネズミの大家族。



その一家が、秋の野山の景色の中

新しい巣穴を探して、大移動。



その旅は希望にも満ちているけれども

命の危険とも隣り合わせ。



天敵のイタチを、息を潜めてやりすごす。

川が行き先を遮れば、助け合いながら、渡る。

夜は、やはり天敵のフクロウを警戒しながら、不安な野宿。



そんな長い旅の末、やっと新しい巣穴が見つかった!

大木の根っこに空いた洞だ。


今度は新しい巣穴を快適な「家」にするための

一致団結した努力が始まった・・・





      ‘:・:*:. ☆ .:*:・:'





天敵のイタチと遭遇したとき、川を渡るとき、野宿のとき。

危険なときは、家族一丸となって協力体制をとる。



まだ少年の長男次男も、鋭くとがった棒を持ってイタチを警戒するし、

長男はお父さんと一緒に たき火を囲んで寝ずの番もする。


家族を守るためには、闘う覚悟ができているのだ。

幼い弟妹を守るために。



まだ少年の長男次男も、川の両岸で綱を支える。

幼い弟妹や年老いた祖父母が 安全に流れを渡れるように。



家族全員で困難を乗り越え、幸福探しの旅。

その中で、それぞれがそれぞれの役割を果たそうとして

一生懸命。




      ‘:・:*:. ☆ .:*:・:'





私の敬愛する河合隼雄先生は

「児童文学」を論じた本も数多く著されているが、


家族が協力し合うことについて

「大草原の小さな家」シリーズを例に上げ

こんな一文を書かれていました。



インガルス一家が幌馬車で川を渡るシーン。



お父さんはもちろん先に立って、

馬の手綱をしっかりと握りしめ、

流れの中で足を踏ん張り、一歩ずつ向こう岸を目指す。



子どもたちは幌馬車の中で怖いのを我慢してじっとしている。

お母さんはただ静かにその子どもたちを抱きしめている。


家族全員が、できることを精一杯やっている。

一家が直面した危機を乗り越えるために、全員が協力している。





子どもにはできることと出来ないことがあって、

お父さんと一緒になって川の中には入っていけない。


けどだからと言って自分を役立たずだとか責めなくてもいい。

怖いのを我慢してじっとしていること。

それも役割を果たすこと。



どんな子も、いつも、

そのときに家庭で果たせる精一杯の役割を果たそうとしていて。

健気に。




      ‘:・:*:. ☆ .:*:・:'




「14ひきのひっこし」でも、

年かさの子どもたちは棒を持ってイタチを警戒する。

小さな弟妹たちは怖いのを我慢してじっとしている。。。



おじいちゃんおばあちゃんも

そんな子を抱きしめたりしながらじっとしていて。。。



新しい巣穴を快適な「家」にするための大工仕事の場面でも、

大きい子どもたちはお手伝い。

小さい子どもたちは走り回って遊んでいる。



それぞれにできる精一杯の役割を果たして居る。

胸が熱くなるようだ。



幼い人たちは

そこにいて笑いながら遊んでいてくれれば

それが役割を果たすこと。




幸せそうにしていること、っていう役割がある。





      ‘:・:*:. ☆ .:*:・:'





ただ遊んでいるだけのように見える子どもたちも 

それが役割。



社会と一緒。


無駄と思えるものを排除しちゃうと

潤いや柔軟性のない社会になる。

多様性こそが生命力を高めるのだ。





      ‘:・:*:. ☆ .:*:・:'





家族全員で困難を乗り越え、幸福探しの旅。

幼い子どもたちまでもが それぞれの持ち場を守りぬく。




最後から二ページ目では、

ろうそくの柔らかな明かりの中、

家族全員で

秋の実りがふんだんに饗された 豊かな食卓を囲む。


一日の労働のあとの、和やかな食卓。



  家庭という幸せ。

  家族があるというの幸せ。

  自分の居場所があるという幸せ。


  一緒に困難に立ち向かう仲間がいるという幸せ。

  守るべきものがあるという幸せ。

  それを今日も守り抜けたという幸せ。


     満足感と感謝と喜び。





全ての家庭が、

今日もまた困難を乗り越え終わって、

家族一同笑顔で 食卓を囲めていますように。





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細やかに描き込まれた、秋の里山の風景が美しい名作定番絵本。

『14ひきのひっこし 』 14ひきのシリーズ
  いわむら かずお  文・ 絵、童心社(読んであげるなら3歳くらいから)



魂に効く絵本 〜絵本は恋に似ている〜
という今はもう廃刊にしてしまったメルマガに掲載していた記事を
収録しております。
posted by スピリチュアルコーチたまちゃん at 16:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 魂に響く絵本・児童文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

めくるめく異世界に遊ぶ絵本ご紹介【魂に効く絵本】

■日付

2005年8月22日(月)


■タイトル

めくるめく異世界に遊ぶ絵本ご紹介【魂に効く絵本】


■本文

魂に効く絵本  〜絵本は恋に似ている〜 2005.8.22 第9号




甲子園も終わりましたね!

北海道は駒大苫小牧の優勝で盛り上がってますよ(^^)

それにしても、人はなぜ 高校野球の応援に

   暑い中 わざわざ出かけていくのでしょうね。





   ☆「夢中で 遊びに熱中する 体験の大切さ」

             がテーマの 絵本 ご紹介



∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

『めっきらもっきらどおんどん』長谷川摂子 文、降矢奈々 絵、福音館書店
                    (読んであげるなら4歳くらいから)


『かいじゅうたちのいるところ』モーリス・センダック、富山房
                   (読んであげるなら4歳くらいから)

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞



二冊とも、子どもが異次元の世界に巻き込まれ、

いろんな冒険をし

そして無事に元の世界に戻ってくるというファンタジー。



いわゆる「行きて還りし物語」を踏襲している。



ファンタジー文学の王道「行きて還りし物語」の精髄が


    低年齢から 存分に楽しめる 定番の名作。





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この二作品には、

「めくるめく」という形容詞がぴったりなような気がする。

その迫力、その強烈なイメージ。



  思う存分異世界で遊びほうけてから帰って来る 完全燃焼感。

  理性も理屈も振り捨てて 全身で遊ぶ感覚。


  野性的な情動に突き動かされて、

     すべてを忘れて遊び狂う、その感覚。






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そして、もう一つ印象的なのは、

そっちの世界に行ったっきりにならずに

ちゃんと戻ってこれるきっかけに、

二作に共通して 母親との絆が描かれていること。





情動の世界も大切で、そっちにどっぷりと浸かる体験も大切。



でも、現実生活も送らなきゃいけない。

戻ってこなくてはいけない。

そこで、呼び戻してくれるもの。

つなぎとめてくれるもの。


 それは愛に満ちた身近な人間関係。




子どもの頃、 「かいじゅうたちのいるところ」の最後の一文に

とても慰められたのをよく覚えてる。


 「部屋にはちゃんと夕ご飯が置いてあって、まだほかほかと温かかった」


待っててくれている人がいる、という安心感、安定感。






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このメルマガ、「魂に効く絵本」の趣旨は、

“魂を少し震わせて、
    少し生き生きを取り戻そう”なのですが、


まさにそれをやっている子どもを描写したのが

「めっきらもっきら」であり

「かいじゅうたちのいるところ」なのだと思います。



夢中になれるものに没頭して、

現実とか理性とかの手の届かない

自分の深いところまで降りていって

戻ってくる体験の豊かさ。



情動とか本能とか狂気とか野性とか


   それらにどっぷりと浸かる経験の健康さ。



そしてそれは、

  「人はなぜロックのライブとか、

   よさこいソーランとか、

   高校野球の応援に

   わざわざ出かけていくのか」

という問いの答えなのだろう。


それらの会場の熱狂と、

「かいじゅうたちがいるところ」での

怪獣たちとの言葉もない熱狂のシーンはとても似ている。



共鳴や共振があればより容易に熱狂や没頭や夢中の体験ができる。

場の力、仲間のダイナミズムが作用する。


同じく熱狂している人間が発するなにかに共鳴して、

よりいっそう夢中になる。

よりいっそうのめりこむ。

より一層理性を吹っ飛ばす。






      ‘:・:*:. ☆ .:*:・:'






言葉の要らない、

理屈も 理性もない、

あるのは情動とか熱狂とか歓喜とか野性とか本能。

魂のふるえ。



そういう世界に浸かることの豊かさ。

集合無意識レベルで多くの魂と共感する。

魂のジャングルみたいな。

魂の深海みたいな。



そこへ還っていって

  そこにどっぷりと浸かることで

          人は魂の全体性を取り戻すのだろう。



生きる力を取り戻すのだ。





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「遊び」の重要性。


人間の根源的な生きる力を取り戻す時間が

我を忘れて熱狂している時間、

“遊びに夢中になっている時間”。



一見無駄にしか見えない「遊び」が持っている豊かさ、力強さ、奥深さ。

それを失ったら、生きる力も失われてしまう。




熱狂と没頭。

それがある人生は厚みとふくらみと深みがある。

それがある人生は味わい深い人生となる。





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私の大好きな言葉に、

中島らもさんの名言

「恋愛は日常に対して垂直に立っている」

があります。





  「恋愛は日常に対して垂直に立っている。


  その一瞬が永遠をはらんでいる。

  その一瞬は、通常の時間軸に対して垂直に屹立していて、

  その無限の広がりの中に、

  この世とは別の宇宙がまたひとつ存在しているのだ。」


            『恋は底ぢから』中島らも著 集英社文庫P70より






物語や絵本や 遊びに熱中している時間も

日常に対して垂直に立っているといえるのではないだろうか。


だからこそ、

そういう時間が多い人生は ふくらみや厚みや深みがある。

豊かなのだ。




心電図の針の軌跡の、上下に振れる幅が広いように。

上下の振幅の幅が狭いのは、生きる力が弱い状態を表している。

無感動で平坦な日常。

潤いのない茫漠とした状態。

生きたまま死んでいるかのような。





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「めっきらもっきらどおんどん」と

「かいじゅうたちのいるところ」の二冊の絵本を手に取ろう。

その二冊が ページ一杯に発する熱狂と夢中の波動に共鳴しよう。


大声で朗唱してみよう。

理性なんて一瞬忘れて、その世界を全身で味わってみよう。

散文の日常に対して垂直に立つ、詩のような時間を登場人物たちと共有しよう。

その一瞬に永遠を見よう。



それから、大切な人たちが暮らす、この愛しい日常に帰ってこよう。



多少 退屈かもしれないし

詩のキラメキや 爆発性はないかもしれないけれども、

散文の安心感と安定感のある、この日常生活に。







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『めっきらもっきらどおんどん』長谷川摂子 文、降矢奈々 絵、福音館書店
                    (読んであげるなら4歳くらいから)


『かいじゅうたちのいるところ』モーリス・センダック、富山房
                   (読んであげるなら4歳くらいから)


参考図書:『恋は底ぢから』中島らも著 集英社文庫



魂に効く絵本 〜絵本は恋に似ている〜
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