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2007年07月08日

信頼って、なに?その1(2005年7月の日記より)

7/9〜7/14の東京旅行全体が人生の昇格試験のようだったと感じているんですが、その大きなテーマは二つ。


1.「信頼とはなに?」

2.「応援してくれる人が居るからがんばれる? じゃあ誰も応援してくれなければ、あなたはどうするの?」


でした(^^;



私はこの旅行の前半に、ちょっとした個人的な対人トラブルを経験しました。

それは、実際に起こった事件レベルで言うと、本当に些細なことでした。




このブログを以前から読んでくださっている人ならもうご存知だと思いますが、私はとてももろく、あやうい面を持っています。

傷だらけのインナーチャイルドを抱えています。

自己肯定とか基本的信頼感が、とても揺らぎやすい。




この些細な出来事を巡って、なぜか私の中で地震が起こってしまいました。

もともとバランスの悪い基本的信頼感が大きく揺らいでしまいました。

事実関係としては、全然たいした事件じゃないのに、インナーチャイルドとしてはすごく傷ついちゃったみたいで・・・(;;)




多分、私が「課題」を求めている時機だったんでしょうね。

基本的信頼とはなにか、について考えなければいけないタイミングだった。

この、本当に些細な出来事に、私はなぜか根本から揺らがされ、ものすごくショックを受けてしまいました(^^;







「応援してくれる人が居るからがんばれる。」

「少なくとも何人か、私を認めてくれる人が居る。
だからこの世に生きていてもいいと思える。」

私の基本的信頼感は、そういう条件付きだったのですね。


私にとってのその些細なトラブルの相手の方は、その「私を応援してくれる人」「認めてくれる人」のうちの、存在感の大きい一人でした。


「この人は私を応援してくれる、と信じていたけど、その根拠はいったいなんだったんだろう?」と、世界に対する基本的信頼がガラガラと音を立てて崩れました。




「応援してくれる人が居るからがんばれる、と思ってきた。

それがただの思い込みで、誰も応援してくれてなんかいないとすれば?」


「私を認めてくれる人が居るから、この世界に生きていてもいいと思えた。

でも、誰も私を認めてなんていないとすれば?」


「私はこんなに簡単に揺らぐものを信じてきたんだ・・・。

なんの根拠もないことを。

なんて、心細い。なんて、あやうい。」


「こんなに簡単に信頼とは揺らぐのだ。

私が信頼している他のこともまた、簡単に揺らいで失われてしまうのだろうか・・・。」


「あの人も私を応援してくれている、あの人も私を認めてくれている、あの人も、あの人も、と今まで数え上げてきた人。

でも、その根拠は?

それは一体、事実なんだろうか。証明できる? 保証はある?」

「信頼って、一体なんだろう。私はいったい、今まで何を信じてきたんだろう。

これからは一体、何を信じて生きていけばいいんだろう。」



高所恐怖症の人が催眠術をかけられてすいすいと高い塀の上を歩いていた。

なのに、その途中で、その催眠術がとかれてしまった。




例えて言えば、そんな気分でした。



ハッと気がつくと、自分は高い塀の上で何も支えるものもなく立っている。

向こうはじまではまだまだ遠い。

あそこまで渡りきらなければいけない。

でも催眠術からは醒めてしまった。

私はぶるぶる震えながらその場にしゃがみこみ、動けなくなってしまいました。

「最後まで夢を見させていて欲しかった」こんな言葉が何度も何度も頭をよぎります。





大切な大切な家族だって、明日交通事故で死んでしまうかもしれない。

実家の両親だって、きょうだいだって、いつ私を置いて天に召されるかわからない。それは今日かもしれない、明日かもしれない。

家族も、友達も、他のなにも、確かなものなんて、何一つ無い。

それは、どうしようもないこと。

そんな中、私は何を信じて生きればいい?



こんな些細な出来事で、私の住んでいる世界というものの確かさが揺らぎました。

確かな実体だと思っていた世界の構成要素は、まったく確かなものでなんかなかった。

押せば倒れる張りぼてだ。書割だ。




そのトラブルの内容は、本当に些細なこと、ささやかなことです。

「もぉ〜(笑)、今度からは気をつけてよね!」で済んでもおかしくないことなんです。



でも、私の中の傷を直撃してしまいました。


誰かがすれ違いざまに誰かの肩に当たる。よくあること。

でもその相手の人は丁度その場所に深いまだ癒えてない傷を持っていた。

何の悪気も無いただのはずみ、よくあることなのに、傷を持っている人はその場で悶絶しなければならないほどの苦痛を感じることとなってしまった。


そんな感じです。


多分、私が「課題」を求めている時機だったんでしょうね。

基本的信頼とはなにか、について考えなければいけないタイミングだった。





「あの人も私を応援してくれている、あの人も私を認めてくれている、あの人も、あの人も、と今まで数え上げてきた。でも、全て思い込みに過ぎないのでは?」

「信頼って、一体なんだろう。私はいったい、今まで何を信じてきたんだろう。

これからは一体、何を信じて生きていけばいいんだろう。」


私の住んでいる世界というものの確かさが揺らぎました。

確かな実体だと思っていた世界の構成要素は、まったく確かなものでなんかなかった。

押せば倒れる張りぼてだ。書割だ。





そのトラブルが起こった日が10日の夜でした。

久々に私のインナーチャイルドである内なる我愛羅ちゃんが大暴れしているのを感じ、寝ても醒めても涙が止まらない状態にまでなってしまっていました。

そのときは何がこんなにつらく苦しく痛いのか、よく把握できてませんでした。

正直に言って、「あの人が私をこんなにも傷つけた。ひどい!」という程度の認識でした。

渦中に巻き込まれてしまって客観的な眼差しを失ってしまってました。



翌11日、ゆこりん改め天海 悠さんと初の対面を果たし、ローズ大ハッピーさんのヒプノを受ける中で、気づきが深まっていく私・・・。


(ずいぶん以前から11日にローズ大ハッピーさんのヒプノセラピーの予約を入れていた、ということがすごく不思議で、シンクロだなあと感じます。)



「全てのことはベストのタイミングで与えられるギフト」なんですよね。

私にとって、この出来事が必要だった。

必要な学びとして、今、与えてもらった。

相手の方は、私のための課題を携えて、私の人生を訪れてくれた恩人なんだよ、と気づきました(気づいただけで、なかなか「でもひどい!」という気持ちからは抜けられませんでしたが^^;)


そしてたぶん、相手の方にとっても、私が涙ながらに「ひどい」と訴えたこと(お恥ずかしい;;)は、きっと丁度いいタイミングで与えられた学びだったに違いない。

色んな事情を鑑みると、素直にそう納得できる材料が揃っているんですね。



また、ローズさんのヒプノでは、まだこれだけ痛む傷の正体を見に行きました・・・

posted by スピリチュアルコーチたまちゃん at 03:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 過去生の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

信頼って、なに?その2(2005年7月の日記より)

ローズ大ハッピーさんのヒプノで出てきたのは、みなしごになってしまった過去生でした。

以前にもちらりと出てきたことのある過去生です。

それが、より一層細かく詳しく出てきました。




5歳か6歳くらいの女の子。

のどかな農村で、お母さんとおばあちゃんと幼い弟とで、とても幸せに暮らしている。

お父さんの姿は出てこなかった。

居なかったのかもしれない。

そのせいか、お母さんから「お姉ちゃん」としてすごーーく頼られ、必要とされて、とても張り切っている。

張り切ってお手伝いをし、進んで弟の面倒を見ている。

お母さんから「お前が居なかったらどうなっていたやら」というような言葉をいっぱいもらって、すごく誇らしい。

必要とされ、愛されて、とても幸せだった毎日。




そんな平凡で満ち足りたある日、山に薪を集めに行った。

帰って来てみると・・・





村がなかった。




土石流? 土砂崩れ? 地震?




なにか、そのような自然災害のせいで、村が、壊滅していた。





女の子は一人ぼっちで、取り残されてしまった。






大好きなお母さんを、かわいい愛しい弟を、優しく温かいおばあちゃんを、泣き叫びながら探し回る。


引き裂かれそうな絶望と恐怖。


打ちのめされる圧倒的な孤独。


一人おめおめと生き残ってしまった自責の念。


誰一人守れず救えなかった罪悪感。




そして、怒り。

強烈な、怒り。

裏切られ感。




「家族なんだもの、いつも一緒だよ」

「大好きだよ、絶対に離さないよ」

「何があっても一緒にいようね」



お母さんはいつもそう囁いてくれていた。




守れない約束なんかしないでよ!


私を置いて行かないでよ!


約束が違うよ!


全部、嘘じゃん!


お母さん!お母さん!お母さん!






ローズさんが、「本当にお母さんはあなたを裏切ったのでしょうか。嘘をついたのでしょうか」と問いかけてくれる。





「嘘じゃないなら・・・裏切ったわけじゃないなら・・・



私がみんなのところに行かなければ!


みんな、待ってるから!


私を探してるから!


淋しがってるから!」





最初、つぶやくような低い声だったのに、途中からこみ上げてくるものがあり、最後は悲鳴のような声で号泣。





身近な人との絆にも、世界へも、すぐに信頼が揺らいでしまうのは、この記憶のせいだったんですね。




大切な大切な家族だって いつ喪ってしまうかわからない。

私を置いて天に召されていくのは今日かもしれない、明日かもしれない。

今日、外出先から帰宅したら家がないかもしれない。

さっきまであった村が、一瞬あとには跡形も無いかもしれない。

家族も、友達も、村も、世界も、確かなものなんて、何一つ無い。

それは、どうしようもない事実。

そんな中、私は何を信じて生きればいい?



私の住んでいる世界というものの危うさ、もろさ。

世界の構成要素は、信頼して寄りかかるには、あまりにもはかない。





ヒプノセラピーセッションは、ハイヤーセルフに出てきてもらって、「それでも人を信じ続けなさい」という言葉をもらって、終わりました。


そのときはスッキリしたと感じたんだけど、まだまだ残っているものがありました。




この階段は、足を置いたら崩れるかもしれない。

そう感じてしまったら、もうその階段を登れない。


この人は、いつ居なくなるかわからない。

そう思ってしまったら、もう 人に心を預けられない。



さみしいさみしいさみしいさみしい




何をしていても涙があふれてきます。

7/13のコーチングの資格試験の本番も、ティッシュで鼻をかみながら、目の周りを真っ赤にしながらの受験でした(^^;



でも、その夜、私は私なりの答えを、私なりの光を、とうとう見つけたのです。




      □ ☆ □




5歳頃に天災に遭い、家族も家も、それどころか住み慣れた村全体を失って孤児になってしまった過去生の記憶(かもしれないイメージ^^)をヒプノセラピーで思い出しました。


その記憶とダブる思い出があります。



私が5歳の頃、父と不仲だった母は、家出を計画します。

でも、子どもの数が多かったので、全員を連れて出るわけにはいかない。

「あんたは置いていく」と私は面と向かって母から宣告されました。




茶の間の奥の部屋の、本棚の前でのことでした。

私は立っており、母は正座してました。

正面から私の顔をのぞきこみ、「**(妹の名)はまだ赤ちゃんやし、**(弟の名)は甘えんぼやし、連れていかなしょうがない。あんたはママがおらんでも大丈夫やろ? な?」と。



今でもありありとおぼえています。

幼い私にとって、目の前が真っ暗になるような衝撃だったことも。

それでも、泣くでもなく駄々をこねるでもなく、黙ってうなずくしかなかったことも。



結局、母は家出を断念しました。

でも、次の朝、弟や妹の服はいつものタンスの引き出しの中にはありませんでした。

母はトランクの中から着替えを取り出し、妹や弟に着せていました。





私の服は、いつも通り、タンスの引き出しの中に入ったままでした・・・






この、母から「要らない子」として選ばれ、「あんたを捨てる」と宣告された思い出は幼い私には重すぎ、ずいぶん長い間封印されていました。


中学生のとき、フロイトと出会い、深層心理とか抑圧などの言葉を知った私は、当時のあまりの生きづらさの理由を解明するために、自己分析に没頭し、その過程でこの記憶の封印を解きました・・・



こんなにもありありと細かいところまで覚えているのに、それまで意識の表面には決して上らせないようにしてきた自分の心理機能。

あまりにつらくて、受け容れがたいから。

自分が崩壊しそうになるから。




涙をこぼさずにこの記憶について思い出せるようになったのは、ここ数年のことです。




母は、とても愛情深い人でした。(今もそうですが。)

子どものことを溺愛する、どちらかと言えば過保護・過干渉の人でした。

私に対しても、抱きしめたりほお擦りしたりチュウしたり(^^)、大好きとか宝物とか、たくさんの言葉をくれました。




そんな母が私を要らないと言うならば、一体どこの誰が私を愛するだろう?

そんな母が私を捨てようとするならば、いったい誰を信じられるだろう?

母のように、どんな人も必ずいつか手のひらを返すのだろうか。

耳に心地良い言葉をくれる人に限って、いつか手ひどく裏切るのだろうか。




「天災で孤児になった過去世」の記憶は、この実際の記憶を「例えて言えばこんな衝撃」とノベライズしたものなのかもしれません。


私にとって、それまで慣れ親しんでいた世界が崩壊してしまうようなインパクトんだよ、ということを物語として表現する・・・。





もう何も信じられない、もう誰も愛さない、みんな嘘つきだ、みんな裏切り者だ。




なんで私を置いて行くの?

本当に私が母親やきょうだいを失って平気だと思うの?




大人になった私も、身近な人を失いそうになることに耐えられない。

自分の全存在を否定されたように感じてしまう。

世界が崩壊してしまうように感じてしまう。



その秘密はこの記憶の痛みにあるんでしょうね。




母は結局、家を出なかったのですが。

私のために、不幸な結婚生活に踏みとどまってくれたのですが。

私はそれほど愛されていたのですが。

母が自分の人生を捧げてくれるほどに。

posted by スピリチュアルコーチたまちゃん at 03:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 過去生の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

信頼ってなに?その3(2005年7月の日記より)

昨日、『天災で孤児になった過去世の記憶』は、この実際の記憶を「例えて言えばこんな衝撃」と物語として表現したものかもしれません、と書きました。

でも、ゆっくりかみ締めてみると、私の感覚としては、先に『天災で孤児になった過去世の記憶』があり、

さらにその傷を上からえぐられたのが「要らない子として母から選ばれてしまった五歳の頃の実際の経験」と思ったほうがしっくりきます。


だからこそ、ここまで痛むのだ、と考えたほうが、しっくりくる感じ。



親しくて信頼していた人から、前言を翻されたり、約束を守ってもらえなかったりした時の「まただ・・・!」という怒りと悲しみ。


「いつもこうだ」

「いつもいつも、みんな守れない約束ばかりする」

「どうして、信頼させておいて裏切るんだろう?」

「守れない約束なんて、しないで欲しい。自分がどれほど残酷な行為をしているのか、わかっているんだろうか?」


この怒りと悲しみと裏切られ感。

そんな感情を味わうたびに感じる、世界が根底から崩壊してしまうような不安。


その根っこは、その過去生の記憶にあると思うと、なにかと矛盾なく符号する感じ・・・。

ま、真実なのかどうなのかは検証のしようがないわけですが。




13日、CTIのコーチ認定資格試験のあと、CTI関係者の飲み会に試験受験生も誘っていただきました。

試験の最中からずっと

「何も確かなものなんてない」

「他の友人だろうが、夫だろうが、子どもだろうが、いつ私を置いて去っていくのか、誰にもわからない」

「私が信じていたものって、なんてはかないんだろう」

という想いに囚われ、ずっと涙ぐんで鼻をすすっていた私ですが、飲み会の席でとうとう泣き始めてしまいました・・・(恥; *^^*)


コーチ仲間はみんな、とても聞き上手で、人の心に寄り添うのが上手です。

そして、明らかに私の様子はおかしかった。

そんな敏感で優しくあったかい仲間から、どうしたのかを聞かれ、



「資格コースが終わってしまうのが本当に淋しい。

私は北海道在住で、他のCTIコーチ仲間からは一人で離れてる。

資格コースが終わってしまうと誰かから電話がかかってくることも、もうない。

私は一人で放り出されてしまう、私は一人だ、と感じてる。」

というふうに説明して、そのまますすり泣き・・・。




そしたら、CTI代表の島村剛さんが離れた席に座っていらっしゃったのに、わざわざ私のとこに来てくださって、



「僕は、決して、珠帆さんを一人になんかしません!」



と力強く断言してくださいました(;;)




思わず胸に迫るものがあり、一層激しく泣きじゃくりながら「インナーチャイルドが嘘つき!って言ってます」と返事をしました(^^;




それが本当だったらどんなに嬉しいか。

でも、できない約束なんかもうしないでよ!

できない約束で期待させるのが、どれほど残酷なことか、わかってるの?!




でも、剛さんは繰り返し言ってくださいました。

「僕は、決して、珠帆さんを一人になんかしません」




その二回の言葉にこめられた語勢が、私の胸を打ちました。

深いところから出された、真実を語る声でした。

表面的な浅いところから出された声とは全く違う、力強くて人の胸に直球で届く声でした。


内容ではなく、声にこもった真剣さ、思いの深さが私の心を揺さぶりました。




想いだけは真実なんだ。


それが、突然、その時、腑に落ちたんです。



状況がそれをゆるさないことは、ままあるだろう。


(ただでさえ多忙な剛さんが、どうやって私をひとりにしないでおくことができると言うのでしょう?)


でも、その思いはきっと、真実なものなんだ。



「約束を守ったか守らなかったか」「実際にどのような言動を取ったのか」など、表面的な行動レベルに焦点を合わすのではなく

また、物理的地理的距離も超えて、

私たちは、お互いの「想い」の強さや真実さを信じていくしかない。



そうなんですよね・・・




状況がそれを許さないことは、ままある。

でも、想いだけは信じよう。

それ以外に信じるに足るものがあるだろうか?





熱烈に愛を語り合ったカップルが破局を迎えて別れることなんてよくあって。

でも、以前、「愛してる!」と囁きあったその瞬間の想いだけは真実で。




お母さんが子どもに「何があってもお母さんが守ってあげる」っていくら言っても守れないことはままあって。

でも、その想い、そう言いたくなる想いだけは真実で。



私もまた、愛しい我が子を置いて、突然天に召されるような事態になるかもしれない。

でも、私が幼い子どもたちを置いて去らなければならなくなったとしても、私が彼らを愛した事実は変わらない。

私が彼らを抱きしめる、その瞬間の温もりを覚えていてほしい。





過去生での母も、今生での母も、「大好き」「大切」「ずっと一緒」とよく言ってくれていた。

その想いが真実なことを、私は実はよく知っていて・・・(;;)

私は裏切られてなんか居ない(泣)

残念なことに、状況がそれを許さなかった。

それだけなのだ・・・


想いは真実。

込められていた深い想いは真実でした。








  大切な大切な家族だって いつ喪ってしまうかわからない。

  今日、外出先から帰宅したら家がないかもしれない。

  家族も、友達も、世界も、確かなものなんて、何一つ無い。

  それは、どうしようもない事実。

  そんな中、私は何を信じて生きればいい?




この問いの答えを、私は見つけました。



人との関係においては、「その瞬間瞬間に飛び散る火花を」。






人と人が深いところで触れ合った瞬間に飛び散る火花、それ以外に信じるに足るものがあるでしょうか。


誰かと誰かの魂が触れ合う。

その神聖な瞬間、人と人の間にスパークする火花。


温かな共感。

存在の奥深いレベルで、何かと何かが共鳴を起こす。




人と人とは、まるで宇宙の虚空に浮かぶ惑星同士のように孤独。

なのに、お互いの間に横たわる深遠の闇を超えて、神聖な火花が飛ぶ奇跡の瞬間っていうのが、確かにあって。



(今回日記に寄せられた温かいコメントの数々に、私はそれら火花を見ました・・・。真実の触れ合い、真実の共感を感じました。ありがとうございました。)


そしてそれは、流れ星をビンに閉じ込めていられないように、

そよ風を缶詰にはできないように、

一瞬一瞬過ぎ去っていってしまうもの、つなぎとめてはいられないもので。


だからこそ、貴重で。


飛び散る火花は宇宙の虚空に消えていっても、その明るさ、美しさ、その瞬間の感動を私はありありと覚えている。


そしてまた、火花は必ずや何回でもスパークするだろう。

周囲に人がいてくれる限り。

私が、人と誠実に触れ合い続けるのをやめない限り。




人との触れ合い以外の部分では、私が何を信じようと、どんな信念を持とうと、自由なのだ、と。

裏づけとか証拠とか保証とか根拠とか、どうせないんだし、と。




  今日、外出先から帰宅したら家がないかもしれない。


でも、あるかもしれない。




  今日、人工衛星が降ってきて潰されるかもしれない。


でも、そんなことは起こらないかもしれない。




何を信じようと自由ならば、

   人がその個人的な世界の神ならば、

私は、自分が一番心地よく、一番力強さを増す信念を選ぼう。



明日もまた世界は安全に続くと、まずは信じよう。

この階段は崩れない、そう信じてのぼっていこう。

人と関わった瞬間に胸に満ちる温かい感動。

「いつか訪れるかもしれない別れ」を恐れすぎて、その瞬間瞬間の温もりを味わうことを拒否してしまうようなことのないように、生きていこう。




思い起こせば、私はその元々のトラブルの相手の方との間に、たくさんの美しい共感の火花を飛び散らせてきていたのです。


「実際にどのような言動を取ったのか」など、表面的な行動レベルに焦点を合わすのではなく

飛び散った火花の明るさ、美しさ、その瞬間の感動の記憶に焦点をあわせたい。


その瞬間瞬間の想い、共感、感動、温もり。

それらは真実のものでした。





この東京旅行全体が、まるで人生の昇格試験のようだったと感じています。

そして、答えが見えた、と。

そして私は自分が人生の昇格試験には合格できただろう、と感じています。



1.「信頼とはなに?」

→なんの根拠も保証もなくても、あえて身を投げ出して預けることです。

 なんの保証もないことを、覚悟の上で。
 
 裏切られて痛い思いをするのも、自己責任で。

 その瞬間瞬間の、自分にとっての真実を重んじること。

 それに従って、身を投げ出して預けること。
 
 その結果を、引き受ける覚悟をすること。




2.「応援してくれる人が居るからがんばれる? じゃあ誰も応援してくれなければ、あなたはどうするの?」

→誰一人応援してくれなくても、誰一人私を認めてくれなくても、私は前を向いて歩き続けます。

 それが私ですから。




今回、激しい苦痛の中で、たくさんの方に支えられて、私はわたしなりの答えを、光を、見つけました。


私と関わってくださったみなさん、本当にどうもありがとうございました。


心からの感謝を捧げます。

posted by スピリチュアルコーチたまちゃん at 03:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 過去生の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

信頼って、こういうことだったんだ(2005年7月24日(日)の日記より)

長い連載が完結しました。
お付き合いくださった皆様、温かく心のこもったコメントをくださった皆様、ありがとうございました。

こういう、ささやかだけれども明るい火花をきらめかせることだけを追い求めたいな、と改めて感じました。

他人の言動をコントロールしようとしては、「約束が違う」とか「信じてたのに裏切られた」と騒ぎ立てるような、そんな浅いレベルの“エセ信頼”は手放したい。



みんな、「つながって」いる。

でもそれを「繋ぎとめたままに保とう」というのは無理なことで。

それをなんとか「繋ぎとめたままにしておきたい」と色々やってはかなわず、落ち込んだり傷ついたり、みたいなことを繰り返してきたのかな、という気がします。

ひと言でいって、執着であり、依存ですよね。

自分の存在が危うくて、それを誰かに保証して欲しかったのです。

誰かを繋ぎとめることによって。

誰かの言動をコントロールすることによって。




今回、「確かなものって一体なに?」と突き詰めて突き詰めて探っていって、自分の存在の核のような、芯のようなものに行き当たりました。


唯一確かなものって、自分の存在。自分の本質。


そしてそれは、誰かの言動によって価値を測られるような、そんなものではない。

人の本質は、誰かの言動によって損なわれたり価値が下がったりするような、そんなものではない。



誰かがどんな振る舞いをしたとか、誰かの言動がどうだったとかにいちいち反応しなくていい。

ただ、「核」から「核」を、「芯」から「芯」を見る。



自分自身の輝く本質を、確信を持ってギュッと握り締めることさえできたら。

そうすれば他の方の輝く本質にも焦点を合わせることができる。



それができればたいていのことは恐れなくていいんだ、と学びました・・・。






過去につらいトラウマを抱えている方へ。

傷ついたインナーチャイルドがまだ内側で泣いている、という方へ。



乗越えましょうね、お互い。

魂は自由なはずです。

乗越えられない試練は与えられないはずです。

全てはベストのタイミングで与えられたギフトのはずです。

想念が現実を作るはずです。

いつまでも、過去に私たちの人生を損なわせ続けるわけにはいかない。

そう思いませんか?

乗越えられますとも。

いっしょに手を携えて、歩き続けましょう。


フラワーエッセンスなども助けになってくれますよ。




ちなみに、私はRosemaryさんに一ヶ月前にフラワーエッセンスを調合してもらったんですが、それがなんと、以下のような内容でした。




  ☆〜★〜☆〜★〜☆〜★〜☆〜★〜☆


ミルクウィード〜〜〜
過度の依存症や幼児がえり、感情的退行に。
またアルコールや薬物、過食や過眠によって意識を鈍らせようとする人に。
魂の非常に深いレベルで滋養を与え、退行現象を起こしている核の部分を再生させる能力を育て、健康的な自我や自信、自立心を育てます。

ウィロウ〜〜〜
被害者意識や、自分を正当化してまわりを責める人、ネガティブな感情に執着する人に。
魂に弾力性や柔軟性をもたらし、受け入れ、許すことができるよう促します。人生の状況を自分が作り出していることに気づき、自分の人生に責任を持てるようになります。

ホリー〜〜〜
自分が他者や愛から切り離されていると感じることから来る、嫉妬、羨望、疑い、怒り、憎しみ、恨みなどのネガティブな感情に。
ハートを愛で満たし、愛と許しをもたらし、他の人間に愛を差し伸べることができるよう促します。
自己の定義を限られた狭いものから、広がりのある、他者をも包括するものへと切り替え維持するのを助けてくれます。

イブニングプリムローズ〜〜〜
胎児期や乳幼児期に受け取った拒絶感や孤独感、虐待から「自分は誰からも望まれない存在」と思い込み、人との深い感情のふれあいやかかわりを避けたり、性的、感情的な抑圧のある人に。
魂の深い核の感情に気づきと滋養を与え、心の傷を癒し、素直に愛情を表現できるようにサポートします。


  ☆〜★〜☆〜★〜☆〜★〜☆〜★〜☆



そのときは自覚的にはなにも感じてなかったはずなんですが・・・ずばりじゃないですか〜(><;

なんでわかったんだろう?(^^;




このエッセンスを、ちょうど東京で飲み終わるんです。

そう、そのきっかけとなったトラブルが起こった日の午前中に、まさに飲み終わりました。

そしたら、こんな風に気づきの嵐が起こり、一皮剥けることとなりました。



おそるべし、フラワーエッセンス。

おそるべし、Rosemaryさん


/完



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posted by スピリチュアルコーチたまちゃん at 03:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 過去生の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月15日

過去生の記憶?「私は魔女狩りに遭ったのでしょうか」

2005年5月開催の初回よーじゅ先生のタロット集中講座@小樽、

20名近くの方に参加していただいたわけですが。


参加者さんの中には初対面の方もたくさんいらっしゃったのですが、

お話をうかがってみると、

占い師さん、セラピスト、ヒーラー、エネルギーワーカーさん、

とライトワーカーせいぞろい、という勢いでした。


今回が初対面だった参加者さんの一人、マリアさんと、

たまたま隣り合わせに座りました。


マリアさんはヒプノセラピスト兼タロット占い師であり、

過去生とか色々見えてしまう方だそうです。


で、講座中に突然、「あ、今見えちゃった」とおっしゃいます(^^)

「このメンバーで、

みんなで『魔女仲間』として共に学んだ過去生があったわよ」と。


やっぱりその時も、先生はよーじゅ先生で、

そのアシスタントに私がいたそうです。


その時たまたま楽天仲間でもあるwingさんとさゆりんも

すぐ近くに座っていたのですが、声を揃えて「やっぱり?!」と・・・。

「だから魔女狩りの記憶があるのかなあ」と。


私も、とても思い当たる記憶があるのです・・・





私は、ここでもよく書いてますが、

生まれつきすごく強い自己否定と、

そして罪悪感を持って生まれているんです。



私が私であることがばれたら、また迫害を受ける。



わずか二歳や三歳の頃からひどい対人恐怖症で、場面緘黙症でした。

家から一歩外へ出て、家族以外の人と話そうとすると、

恐怖に身がすくみ、声が出ないのです。



無理をすると裏声ならなんとか出たので、

完全な場面緘黙症というよりは

場面緘黙症的傾向といったほうがいいのかもしれませんが。



そんな状態で、幼稚園も小学校も、友達と遊んだ記憶はありません。

怖くて怖くて声も出ないのに、

一緒に遊べるはずもなく・・・友達なんて、一人も居ませんでしたから。



休み時間は、自分の机に一人ただじっと座っていました。

幼稚園の頃は、一人で部屋の隅で体を丸めてうずくまっていました。




そしてまた、それだけでなく

「私の判断はすべて間違っている」という確信的な自己否定が、

なぜか物心ついた頃からはっきりとありました。

自分に自信なんて、ゼロでした。

自己嫌悪と自己否定のかたまり、という珍しい幼児でした(^^;



幼児どころか、胎児のときからですけどね。


母のお腹の中に居たときから

「またなんの役にも立てないんじゃないか、

また失敗するんじゃないか、

また愛する人を守れないんじゃないか」

というものすごい不安を持っていたことを、

ヒプノセラピーを受けてありありと思い出した過程を、

ここでも以前書きました。


私は予定日を大幅に過ぎてから生まれたのですが、

その恐怖と不安から、生まれることに抵抗していたんですね。



ただ魔女狩りに遭っただけなら、

迫害恐怖、対人恐怖だけでいいと思うのですが、

なぜか強い自己否定・自己不信・罪悪感がある。

「また役に立てない、また守ってあげられない」という・・・。

「私のせいだ」という・・・。



なんでだろう?どんな記憶があるというのだろう?と

ずっと不思議に思っていました。

それがマリアさんの言葉で「はっ」とひらめいたことがありました・・・

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2006年08月14日

魔女狩りの記憶 2

「魔女学校」のような場で、私は指導者的立場だった・・・

(今ここで話題に上げている「魔女」とは

黒魔術で悪魔を呼び出すような存在のことではありませんよ^^;。

医者なんていない昔の農村で、

薬草を集めては病気の人に処方したりする

シャーマン的な存在の人のことを言ってます。

現代風に呼べばヒーラーでありセラピスト!)



「それでか!」「わかった!」というようなヒラメキがありました。




私の魂は、ずっと人々に知識を伝えるような指導者的立場だっただろう、

ということは、今まで色んなところで言われてきていました。



「え?そう?ヨイショしてくれてありがとう^^」

くらいな気分で聞き流してきていましたが・・・。



「私が、過去生のどこかで、

魔女学校のようなところで教えていたとするならば。」


私の中で何かがパチリと音を立ててはまりました・・・



私が色んな知識を教え、

セラピストやヒーラーやシャーマンに育て上げた人たちがいた。


その人たちは、私が教え導いたせいで、魔女狩りにあって、殺された・・・

そう思うと、全てが符号するのです。

パズルで、ミッシングピースがあるべき場所にはまったときのように。



私の激しい自己否定、自己不信、罪悪感の理由が、

突然クリアになった気がしました。



私を責める内なる声は、いつもこんなことを言うのです・・・

「私の判断はすべて間違いだから。

 私の行動はすべて間違いだから。

 私の言うことはすべて間違いだから。


 また失敗するから。

 またすべてを失うから。


 だから、私には人前で発言するような資格はない。

 だから、私は何も言ってはいけない。


 私の言葉を信じてついてきてくれる人たちを作ってはいけない。


 また守ってあげられないから。

 また失ってしまうから。

 私のせいで、私のせいで、私のせいで!」




マリアさんを中心に和やかに談笑している中、ボソッと

「私、たぶん、たくさんの人を教えたり導いたりして、

そのせいでみんなを死なせてしまったことがあると思う。

それがその『魔女学校』のときかなあ。

私が教えたせいで、魔女狩りで死に追いやってしまった、って

自分をひどく責めたんじゃないかなあ。

私のせいだーっ、って・・・」



こうつぶやくと、wingさんが予想外の激しい反応を見せてくれました。

突然、顔をくしゃくしゃにして涙をポロポロ・・・



「ちがうよ、たまちゃん、あなたのせいじゃない・・・」



私も一緒に泣いてしまいました。

マリアさんもさゆりんも一瞬だまりこみ、

なんともいえない静寂があたりを包みました。

無言のうちに何か重い記憶を共有した一瞬でした。




突然ですが、最近のマイブーム漫画からの抜粋です。

-----岸本斉史「NARUTO」集英社 第26巻179-187pより抜粋----


(シカマルという少年が、

仲間の救出という任務の小隊長を命じられるが、

次々に小隊のメンバーは強すぎる敵に倒される。

救出というミッションも果たせない。

自身は軽症で済んだシカマルは、

重傷を負った隊員の手術が終わるのを手術室の前で待っている。)



  「俺は今回の任務ではじめて小隊長についた。

   それでわかった。

   俺は忍にゃ向いてねえ・・・。

   俺が甘かった。

   力が足りなかった。

   全部俺のせいだ・・・。」




そうつぶやいてその場を立ち去ろうとするシカマルに、

  「傷つくのが怖いのか?」


という厳しい声が飛ぶ。




  「お前が忍をやめても任務は続く。

  誰かがやらなきゃなんねーんだ。



  お前の仲間はまた別の隊長のもと、出動するだけだ。

  そこでお前の仲間は死ぬかもしれねえ・・・。

  だがもしその時隊長がお前だったら・・・

  仲間はそうならずに済むかもしれねえ・・・。


  今回を反省し、経験を生かして学べば・・・

  任務をより完璧にこなせるかもしれねえ。



  本当に仲間を大切におもうならな、

  逃げることを考える前に・・・

  仲間のためにてめーがより優秀になることを考えやがれ!



  それが本当の仲間ってもんだろーが。

  この腰抜けが!」



そこへ、重傷の仲間が一命を取り留めたという知らせを持って

里長がやってくる。


  「シカマル、どうやら任務は失敗のようだね。

  でもみんな生きてる。

  それがなによりだ。」



里長へのシカマルの返事は



  「次こそは・・・完璧にこなして見せます・・・!」


滂沱の涙と共に、搾り出すように・・・。



-----岸本斉史「NARUTO」集英社 第26巻179-187pより抜粋----





これは、まさに私が今直面している課題。


仲間を危険にさらした罪悪感から、

「もう何もやらない。責任もてないから、もうやめる。」と、

私は逃げを決め込んでいたわけです。



もうなにもやらず自主謹慎を決め込んでいることで償いとしようと・・・。



そこへ一喝。


  「お前が忍をやめても任務は続く。

  誰かがやらなきゃなんねーんだ。」




  「今回を反省し、経験を生かして学べば・・・

  任務をより完璧にこなせるかもしれねえ。」



  「本当に仲間を大切におもうならな、

  逃げることを考える前に・・・

  仲間のためにてめーがより優秀になることを考えやがれ!」






もしそれができたら・・・

  今度こそうまくやれるかもしれない・・・。





シカマル〜

まだ少年のあんたが

「次こそは・・・完璧にこなして見せます・・・!」と言うなら、

私もやるよ・・・。


滂沱の涙と共に、搾り出すように言うなら・・・私もやるよ。

私も挑むよ。



過去に一度や二度失敗したからと言って、それがなんだろう?


こうしてまた巡りあえるなら、一度や二度の別れがそれがなんだろう?


今度こそ、うまくやる。

今度こそ。


それが本当の償いじゃないのか?


(つづく)
posted by スピリチュアルコーチたまちゃん at 01:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 過去生の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

魔女狩りの記憶 3

「NARUTO」の第26巻は二、三週間前に読んでいて、

ズドンと重く胸に響いていました。



そのときはなぜここまでグサッとくるのか分からなかった・・・。

それがタロット講座中のマリアさんやwingさんやさゆりんとの会話で、

ピタッとはまりました。



「私がみんなを死に追いやっていたのかもしれない」

その罪悪感を後悔の涙とともに吐き出すことができた・・・。

私にとって大きなブレークスルーでした。

しかも、その当人たちかもしれない人たちを前にして。



そして、wingさんが「あなたのせいじゃない」と泣いてくれたこと。



さゆりんもその後こんなコメントをくれました。



 「たまちゃん、ありがとうね!!!

  本当に感謝しています。

  魔女狩りの時代のときだって、ずっとそう思っていたよ。

  たまちゃん、ありがとう!って。

  私たちは、つながっているっていう心を持っていたし、

  そのことに誇りを持っていたし、友情が嬉しかった。

  あ、涙出てきた。」


許されたのだ、と感じました。

実は既に許されていたのだ、と・・・。




そしてなぜ私がこんなに

「セラピストを目指している人」、

「ヒーラーを目指している人」、

「ライトワーカーの卵たち」

を応援することを大切に感じているか、

その理由が分かった気がしました。

罪滅ぼしなんですね。

償いなんです。



でも、こけてる人を助け起こすのには積極的で熱心でも、

先に立って旗を振るようなことはできないと感じていた。



 また失敗したらイヤだから。

 自分に自信がないから。

 自分にそんな資格はないと感じていたから。



でも今回、

mirohiさんの「私タロット習ってみたいんですよねー」のひと言に応じて

タロット講座を企画してみて、

たくさんのライトワーカーさん方(またその卵さん方)が集まってくれた。

そして皆さんすごく喜んでくれた。


 「東京まで行かなければ受けられないと思ってました!」

 「すごくためになりました!」

 「満足してます!」



マリアさんが見たように、

このメンバーが過去生での「魔女学校」のメンバーならば。


私が自分を責めていた

「仲間を魔女狩りに追いやってしまった事件」の当事者たちならば。


それがまたこうして巡りあえたのならば。

そしてこうして私が企画した催しでこんなに喜んでくれるのならば。

そしてもし本当に私は許してもらっているのならば。


シカマルじゃないけど、「今度こそうまくやりたい」と思った。


 今度こそ、役に立ちたい。

 今度こそ、うまくやりたい。

 今度こそ。




失敗して、それで終わりではなく、

こうして再会してやり直すチャンスが用意されているならば。

こうして私の企画で喜んでもらえるならば。


 もっともっと役に立ちたい。

 もっともっと全力を尽くしたい。




自分を責めながら

悶々と内にこもっているような自己満足的な償いではなく、

自分の100の力を総動員してできることに取り組むような、

そんな積極的な償いをしたい・・・

私にできることならなんでもする。



どうか、私をお役に立ててください。


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(つづく)
posted by スピリチュアルコーチたまちゃん at 00:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 過去生の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

過去生の記憶に対する私のスタンス

なんだか熱く過去生の記憶について語ってしまいました。

まるで自明の理であるかのように語りましたが、

まだ私の中にためらいと猶予はあります。


だって、事実かどうか、確認できないことですもんね。

ただの空想、ただの妄想かもしれない。


でも、ひとつ言えるのは、

このストーリーについて語ることが私にとって意味がある、ということ。



ある意味で物語療法(ナラティブセラピー)。


私が私自身の生きづらさ、自己不信を乗越えるために、

このストーリーは必要であり、有効であった。



私にとっては真実だった。



このストーリーについて思いをめぐらせ、

湧き上がってくるさまざまな感情を味わい、

共感や理解を示してくれる仲間と語りあうことは、

とても大きな意味を果たした。



その結果、


「私は自己不信を乗越え、根強い対人恐怖を乗越え、

人のお役に立っていく」


という結論に行き着くことができた。



頭ではとっくにその結論は導きだせていた。

でも、体感覚レベルでは腑に落ちていなかった。



体感覚レベルで納得するためには、

「どれほど怖いのか」

「なぜそこまで怖いのか」

を表現するストーリーと、

「そこを乗越える勇気」

「その後得られるつながり」

などのストーリーが必要だった。



そのストーリーに沿って感情を沸き立たせ、

体感覚で(まるでありありと思い出しているときのように)

恐怖、許し、決意、高揚感、つながり感を味わうこと・・・



私の奥深いところでこの体験は真実の体験として経験された。

それはまさに私にとって、癒しの過程だった。





全て、過去生の記憶って、そういうことだと思う。

事実なのかどうなのか、論証のしようのないこと。

だいたい、論証できたとして、それがなんだというのか?



ただ、その人にとって、

そのストーリーを味わい、語ることが意味があるならば、

ぜひそうすればいい。



その人が、その人らしいより良い人生を輝いて生きることに、

何かの助けになるならば。



私は輪廻転生説を採用する。

私は魂には過去生の記憶がある、という説を採用する。

その記憶が今生に大きな影響を及ぼす、という説を採用する。

今生での生き方が、来世がどんな人生になるかを決める、

という説を採用する。


なぜなら、

私はその考え方で世界を見るといろんなことが腑に落ちて明快になるので

気に入っているから。

ただ、それだけ。


私は決して、

「これが正しいのに、その正しさが分からない人たちはおバカ」

みたいなスタンスにだけは立ちたくないと思う。



「私はこの説を採用しました。

あなたは違う説を採用するんですね。」


こんなスタンスでいたい。




私がこんなことを書きたくなった理由には、

どこかで「再び迫害される恐怖」を感じてるという事実があります(^^;



過去生の記憶について書くなんてヘンな人、

と思われて攻撃されるかもしれない。



非科学的な人、狂信的な人、ということで誹謗中傷されるかもしれない。



この不安について昨日、私のコーチに訴えると、

「もう迫害されない、という現実を選択すればどうですか」

と言われてしまいました(^^;



さすが私のコーチ、いいことを言います。

私はもう既に迫害からは多くを学びました。

もうこの学びは私には必要ありません。

私は今生では、認められ受け容れられ社会で活躍していく人生を選びます。 /完



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2006年07月12日

私の中に飼っている竜

(2005年5月21日(土)からしばらく続いた
「溜め込んだ怒りと憎悪」というタイトルの連載を
まとめたものです。)


もう一週間まえになりますが、Rosemaryさんにブリージングセラピーを受けました。

見ていきたいテーマは「魔女狩りの記憶について」。

しかし、よっぽど封印が強いのか、

なかなか何も感じられず、なにも見えないのです。

ただ、お腹がひどく痛くなっていきました。

痛むので両手をお腹に乗せていたのですが、

まるでエイリアンでも入っているかのように、

グリングリンと激しく腸が動くのです。

痛みもその激しい動きに応じて、背中、胃の辺り、下腹、と動きます。


「その痛みに焦点を当ててみてください。

どんなエネルギーなんでしょうか。」


浮かんできたのは、“藍色の竜”。


「その竜は、何を訴えているのでしょうね。」


怒り。

激しい怒りのエネルギー。

目をギラギラと血走らせ、歯をがちがちと鳴らし、

よだれをたらしながら、激しい怒りと憎悪に悶絶している。


渾身の力で壁に体当たりし、落ち、また体当たりし、落ち、

それを繰り返している。

絶望的なまでの怒りと憎しみに、理性は完全に失っている。


呪い。

「俺はクズだ。でもお前らはもっとクズだ!!」

「全員皆殺しにして、それから俺も死ぬ!!!」

「殺す!殺す!殺す」

「許さない!呪う!呪い殺してやる!」


そんな言葉が聞こえてくる。

そんな呪詛と憎悪のどす黒いガスを吐き散らしながら、

周囲の壁に体当たりを続けている・・・


ああ、だからこんなにお腹が痛いんだ。


お腹の中で暴れているのは、その竜でした・・・




私の中で、ものすごい怒りと憎悪に悶絶しながら暴れている竜。

最初、そんな存在が私の中にいたことがすごく意外で、

そして徐々にとても納得できました。

先日、ここでも書いたように、

私は魔女狩りに遭った過去生があるんじゃないかと思っているんですね。



生まれつき、根強い自己嫌悪と自己否定と対人恐怖があった。

それは、怒りと憎しみの裏返しだったんだ・・・。



「よくも仲間と私を迫害してくれたな!許さない、絶対に!」

という・・・。


「よくもあんな目に遭わせてくれたな!! よくも、よくも!」

という・・・。




ブリージングセラピーで、お腹の痛みにフォーカスし、

そこに竜の存在を感じるまで、全く気づきませんでした。


一方的に被害者だと思ってました。



ひどい目に遭い続けて、自己否定と対人恐怖に苦しみ続け、

それでも人を信じ社会に貢献して生きようと努力している健気な私。




そんな自己イメージでした。

こんなに恨みと憎しみと怒りの

どす黒いエネルギーを撒き散らしていたなんて・・・



自己否定も、対人恐怖も、そう思ってみれば、消極的な復讐でした。

対人恐怖は

「お前らなんかに誰が心を開くもんか!」

「誰がお前らなんかを信用するか!」

そういう不信感と拒否の表現でした。



自己否定は

“こんな世の中、こんな人間たちへの徹底的な拒否、否認”

でした。



「もう誰も愛さない」(昔こんなタイトルのドラマがありましたよね)

「自分自身も含めて、もう誰も愛さないし信用しない」

こんな痛々しい、すべてに対するNOでした。



私は、対人恐怖と自己否定の塊となって、

殻に閉じこもって生きてきました。

それは消極的とはいえ、あきらかに攻撃であり、復讐でした。

世の中に対する、人間に対する。




そこでまたアニメ「ナルト」の話になるのですが(^^;

私が最初にナルトにはまるきっかけは、我愛羅という敵役の存在でした。

夕食時、居間でくつろぎながら、

息子が見ているTVが何気なく視野に入ってきて。



我愛羅とナルトの対決の回の放映でした。

その内容があまりに私の魂の傷に触れ、すごい勢いで引き込まれ、

最後は息子を押しのけてティッシュ片手に号泣している私がいました。



ごくごく簡単にかいつまんで説明しますね。

我愛羅という少年は、体内に怪物を封じ込まれて生まれた。

そのあまりに強大な力のため、

村人から「化け物」と疎まれ恐れられ、ずっと一人ぼっちで育つ。

幼い我愛羅が他の子たちと遊びたくて近寄っていっても、

「化け物がきた!」と、禍々しいものを見る目で

クモの子を散らすように逃げていく・・・。


唯一、我愛羅に優しくしてくれたのが、死んだ母の弟である養育係。


だが、ある日、その彼までが我愛羅を襲った。

我愛羅の力を恐れた実の父の差し金だった。

我愛羅の内なる怪物に返り討ちにされた養育係は、

「嘘だ!」と泣きながらすがりつく我愛羅に、

彼を襲ったのは父の命令であること、そして

「姉もあなたなんか愛していなかった。

姉はあなたを生んだせいで死んだのだ。」

と告げる。

「私もあなたなんか愛していなかった。ずっと憎んでいた。」と・・・。

「あなたは愛されてなどいなかった!」と。


そのとき、我愛羅の中で何かが壊れる。

「ようやくわかった。ボクはひとりだ。

もう誰も信じない・・・ 愛さない・・・ ボクはたった一人だ・・・」



で、主人公であるナルトも、そっくりな生い立ちなんです。

孤児であること。

体内に化け物を封印されていること。

それゆえ村人から憎まれ、孤立し、一人ぼっちで大きくなったこと。


でも、その後が違う。

ナルトは淋しい生い立ちゆえに、

自分を認めてくれた人とのつながりを大切にする。


友情に篤く、こんな自分に親切にしてくれた師を慕い、

他の村人からも認められたいからと努力を惜しまない。


明るく、オープンハートで、まっすぐで率直。



我愛羅は、誰も信じない。

誰も愛さない。怒り狂い、世界を呪っている。

心を固く閉ざし、決して心を許さず、

「もう誰も信じない」「誰も愛さない」

「自分以外の人間を殺すために戦う」。



そんな二人が、TVの中で戦っていました。


まさに、私の内面のせめぎ合いを見せられた・・・。



孤独を知り、寂しさを知っているからこそ、

人を信じ人とつながって人のために生きていくのを選びたい私と。


迫害し、拒否し、傷つけた世界を決して許さない私と。

もう誰も信じない、自分を含めだれも愛さない、

もうこれ以上傷つきたくない私。

そんな恨みと憎悪と怒りに満ちた私と。




それでもなお、光を信じ、光を追い求めて生きたい私と。

だからもう、心を閉ざして闇の世界に引きこもっていたい私と。




「仲間だと?! ふざけるな! 自分のためだけに闘え!それが強さだ!」

と我愛羅は叫んでました。


「守りたい人がいて、それではじめて人は強くなれるんだ!

 俺は仲間のために闘う!」とナルトは叫んでいました。




まさに、私の内面のせめぎ合いを見せられたと思いました。

「ロードオブザリング」の中でも、

スメアゴルとゴラムが似たような言い争いをしていましたよね。

ひとつの人格の中の、明暗の部分の押し問答・・・。



確か去年の夏ごろの放映だったと思います。

それ以来、ずっと

「私の中にはナルトと我愛羅の二つの人格がいて、いつもせめぎあう」

と感じて暮らして来ました。


人前に出るのが怖い私は「我愛羅」

(というより、不信感ゆえのビクビクさ・オドオドさかげんはむしろゴラム?

 我愛羅ならば強いからね〜)


怖いのを押して、それでも子育てコーチングセミナーを開いたり、

人とかかわりお役に立って行こうとする私が「ナルト」

(こちらもむしろスメアゴルかも)



子育てコーチングセミナーの前にお腹が痛くなる私は「我愛羅」

(というよりむしろゴラム)


痛むお腹をさすりながら、新聞社にチラシをファックスしたり、

たくさんの人に知ってもらおうと心を砕く私が「ナルト」。



「ナルト(スメアゴル)」が偉いと、

私の中のその部分こそが正しい、と、そちらばかりを応援し、

「我愛羅(ゴラム)」の存在を否定し、

押さえつけ、閉じ込めてしまっていた・・・。




それが、ブリージングセラピーの時にやっと気がついた、

私の体内で怒りと憎悪にもがき苦しむ藍色の竜の正体でした。



    .。.・:*: ☆ .:*:・:'



「一日は夜があってはじめて完全な一日となる。

人格だってそう。

影の部分があってはじめて完全な一人の人間となる。」


有名な『ゲド戦記』の名前を出すまでもなく、

こんなことはどこででも言われていて、周知の事実ですよね。



心理学好きな私は、

中学生の時に『ゲド戦記』、『夢判断』(フロイトですね^^)

読んだときからそんな概念は良く知ってました。



でも、自分のお腹の痛みの原因が、怒り狂った藍色の竜だ、と

ブリージングセラピーで気がつくまで、

自分が自分の影の人格を打ち負かし、抑圧し、無視しているなんて、

一切気がつけずにいました。




狭いところに閉じ込められ、

怒り狂って壁に体を打ち付けて暴れている竜の存在に気がつき、

注意を向けたら、それだけで、竜の怒りは静まって行きました。



そして、さめざめと泣き始めました。


ひどく傷ついていること、

その傷がまだ全然癒えておらず、

まだ血が流れていること、

その耐えがたい苦痛ゆえ再び傷つくのをひどく警戒していること、

だからこそ怒りと憎しみの臨戦態勢で防御していること、

などがよく伝わってきます。



多分、過去生から持ち越してきた傷、怒り、憎しみなんでしょうね。



今まで、人格を乗っ取られて圧倒され振り回されるか、

でなければ打ち負かして抑圧して押し込めるか、

そんな極端な対応しか、してこなかった・・・


こんなふうに、存在に気づき、寄り添うなんて、したことがなかった。

そんなことに気づきます。


その怒り狂った竜に気がついてから今日で二週間ちょっと。

その間、注意を向け続け、その怒りや苦痛を共有しつづけました。

どんどん怒りは静まり、穏やかに、ただ哀しげなだけになっていきました。



無視して蓋をして押し込めても、いなくはならない。

人格を乗っ取られ、振り回されても、満足してくれたりしない。

蓋を開けて、その存在に気づき、正視したら、穏やかになり、

コントロールできるようになる。


でも、蓋を開けるのが難しい。

蓋の存在に気づくのがまず難しい。

なにかを閉じ込めているのかもしれない、

ということに気づくのがまず難しい。



そのために、ヒプノセラピー、ブリージングセラピー、前世療法、

などのセラピーが生み出されたんでしょうね。

そのために、セラピストがいるんですよね。


楽天仲間にもたくさんのすぐれたセラピストさんがいらっしゃいます。

ぜひ、頼ってみてくださいね。

Rosemaryさん(今回は私はRosemaryさんにお世話になりました^^)

りり&ririさん

さゆりん




posted by スピリチュアルコーチたまちゃん at 20:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 過去生の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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